だめのブログ

丸山道慶が書いています

178年3月 神殿講話(たすかるということ)

 ただいま、当教会の3月の月次祭のおつとめを、ともどもにけっこうにつとめさせて頂き誠にありがとうございました。

 ここのところ風が強くて、今日もおつとめをしながら風が強いなあと風のご守護を感じておりました。かしこねのみこと様、方角で言うと南東の方角になるんでしょう、風のご守護をありがたく感じます。

 よく「火水風」と言いますが、私は実は、火、水に比べて風ってインパクト弱いなって思っていまして。

 火と水というのはわかりやすいです。太陽と海の水、飲み水ないと人間生きていられないですが、風というのは太陽と水とに比べるとちょっとこう、3本柱としてリストアップされるにはなんとなくインパクトに欠けると昔思っていたんですけど、あるときに、「風というのはびゅーびゅーと吹く風のことだけではなくて、空気のことであるなあ」と思いまして、地球上人間が、生き物が生きていく上で、おひさまと水と空気と、これが一瞬たりとも欠けてしまうと生きていけない。

 そのご守護、風のご守護というものを改めて感じたおつとめでもありました。

3月11日を思う。神様は怒ったりしない。

 祭文にも奏上しましたが、連日痛ましい事件が起きますもので、親神様にもそのお願いをしました。また我々の日頃の心の持ち方というか、お話をしたいと思うところですが、それよりもやはり今日という日は、四年前、3月11日の、東日本大震災、まさに明日ですが、それから四年という月日が経ちますので、それに触れないわけにもいかないかと思いまして、私の思うところですが話をいたします。

  地震津波地震による津波の被害などで、二万人に近い方が犠牲になったり行方不明だったりします。非常に大きな自然災害です。想像がつかないです。我々も遠くですが大きな地震を経験しまして、教会も瓦が落ちたりしまして、ガソリンがないとか計画停電とか、不便な思いをしましたが、それをもってしても全く想像ができないです。被災地のことというのは。

 その中でも、以前にも少しお話をしたかと思いますが阪神大震災ですとかオイルショックですとか、そういう近代の大きな災害の教訓で助かった命もあるわけです。

 津波てんでんこ、というのですか、揺れたらとにかく高台に逃げろという言い伝えで助かった命もあるようです。

 その中から活かされる教訓というものを我々は次の世代にしっかりと残していかないといけないんじゃないかというのが一つ思うことです。

 あの直後によく言われたことなんですが、天理教に限らずですが、神の怒りだ、と、よく目に耳にしました。人間がいつまで経っても我が身勝手に自分勝手に、殺し合ったり傷つけ合ったりそういう生活を改めないので、いよいよこれは世紀末だ、みたいなことが叫ばれて、教内でもそういうことが言われたことがよくありました。

 私はですね、今になって思えばそうなんだろ、と言われてしまえばそうなのかもしれませんが、私は、やはりその、教祖のお話を聞かせていただくうえで、神様はやっぱり怒ったりしないんじゃないかと、こう思います。

 人間が聞き分けがないから、いつまでもあしき心を使うから、えいやと言って海の水をあふれさせて、罰を与えるとか見せしめにするとか、そういうことは神様はなさらないんじゃないかなと思っています。

 なぜかと言えば、シンプルな理由でして、神様は人間の親だからです。子供がかわいいその一心でご守護くださるわけですから、そういったことをなさるはずがないと思います。

 しかしながら、おふでさきには、ざねんりいぷくとあるではないかと言われてしまうんですが、おふでさきというのは喩え話が多いです。例えば、にほん、と、から、ということを言われます。

 当時ですから、一般の人が読めば、にほん、と、から、と言えば日本という国と、中国や外国という読み方ができます。しかし、おふでさきの注釈を見ますとそれは、にほんというのはお道の中、既に信仰のある方のことを指し、からというのはまだお道を知らない、これからお道の人間が外に外にむかって布教をしていく相手のことを、から、と喩えてお説きくださってある、とあります。

 すなわち、喩えて話をしてくださることが教祖は非常に多かったんです。おそばの方々、大和の農民が布教の対象でしたから、わかりやすく話すためにそのようにお話くださったのであろうと思います。

 であれば、ざねん、りいふくというようなことも、例えば人間の親が我が子にきつく叱るようにするかもしれない。しかしながらそこは神様ですから、人間の親が我が子の聞き分けがないところを見て、カッとなってつい手を上げてしまうようなことはなさらないです。それは教祖が50年かけてお見せくださったひながたの道中を見れば明らかであります。

 すなわち、神様は怒ったりしない、ということを、私は改めてこの3月11日を迎えて、思いを新たにしたいところと思います。

 神様は、あのような時にあってさえ、最後まで可愛いわが子を救いたいとお働きをくださったのではないかと、このように思っています。

 

ご守護にはいんねん抜きには語れない

 

 とはいえ、多くの方がお亡くなりになり、何十万人という方が被災して不便な暮らしをしていることも事実でありますので、今日はもう一つ、おたすけについて、特に助かるということはどういうことかということをお話します。

 おたすけの話を聞かせてもらうと、よく奇跡のご守護やあざやかご守護というようなことが例に挙げられます。これは、助けて欲しいと思う我々の願い、それがその通りになる、ならんということの結果だと思います。

 それはいんねんというものを抜きに語れないのですが、いんねんがあって今があって、それを変えたいという思いです。それが助けて欲しいという願いだと思います。

 いんねんがあって今がある以上それを切るには、通り切らないとなりません。断ち切らないといけないわけです。断ち切るためには通り切らないといけません。多くの場合にそれは今世において切れるというより、来生にかけてまたその次の人生にかけて切ってくださいます。出直しという切って下さるひとつの機会があるわけです。そういう願いをしていくわけです。

 これは、このお道において教祖が死後の世界についてお話をしていないことと非常に関係をしています。天国と地獄ということについて全くお話になっていないわけです。

 ちょっと難しい話になってきていますが、本来長い時間をかけて魂のいんねんを切って下さるわけですが、我々が、治してください助けてくださいというのは、それを今世において、三日後、一年後、十年以内に、というような願いをしているわけです。

 

奇跡のご守護とは生きながらにして生まれ変わる姿

 

 神様は願い通りではなく心通りに守護するとおっしゃっています。たとえば、医者が助からんと言ったものを助けられたこれは、奇跡のご守護です。それは、生まれ変わる姿です。

 本来は今世を一旦終えて、神様に迎えとりいただいてそこでいんねんを断ち切って新たに次の一生がはじまるという、生まれ変わる姿です。通常そうだと思います。

 ですがいわゆる奇跡のご守護というのは、それが生きながらにして起こるということですから、それは神様にしかできないことです。それをお願いする、ということです。

 じゃあどうすれば生きながらにして生まれ変われるのかということです。これも重々神様からお説きくだされてあります。

 それは、よふぼくとして神様の御用をつとめさせていただきますという心が定まった時に、神様が、ある場合においては今世を迎えとりくださいますし、神様がいますぐに必要だと思し召されれば、まるで生まれ変わったかのようなご守護がお見せいただけるわけです。

 教祖の逸話編などを読みますと、そういう話が非常に多いです。助からん者が助かった、場合によっては息を引き取った者が吹き返した。そういう方々がその後どうなったかと言えば、お屋敷で、教祖のお膝元で御用をなさったり、各地でにをいがけをして多くの人を助けたり、教祖のよふぼくとしてのお働きをされたわけです。

 

奇跡に報いるために熱心になったのではないのではないか

 

 そういったお話に触れて私はかつて、助からんものを助けてもらったからその人たちがお助けに邁進したのかなあ、と思っていました。ありえない奇跡を目の当たりにした時に人間はものすごい力を得るのだなと思っていたのですが、実はそうではないのかもしれないと、最近思うようになりました。

 それは、教祖からご覧になって、この人の心が今切り替わったなあ、神様の手足となってお助けに進んでくれるなあと真実を見定めていただいたからこそ、奇跡と言われるようなご守護を、教祖がくださったのではないのかなあと、このように今更ながらに思ったところです。

 これを、いわゆる「誠の心」と教祖がおっしゃる、教祖が大好きな心です。誠の心です。

 人様のためになにかをさせてもらいたい、困っている人に助かってもらいたいというその心、これが「心定め」です。

 なにか目標を立ててそれを必ず遂行するということでもあるのですが、その目標がどこに向かって立てられているか。おぢばです。おぢばには神様がいらして教祖がいらっしゃる。その教祖が人助けてくだされやとおっしゃった。そこに心が向くかどうかです。

 完全に一致するのはできないとしても、大元の考え方として教祖に心が向いているかどうか。ということが神様にお受け取りいただく、ご守護くださるための第一歩ではないかと思います。

 しかしながら我々が考えていかなければならないのは、奇跡のご守護を願うには、第一に、日日に結構にご守護いただいて不自由なく通らせていただいている、すなわち十分におたすけいただいていることを心に収めることだと思います。

 それが、おたすけ、助かるご守護だと思っているところです。

 

犯罪報道に触れて、思うこと

 

 もうひとつ別のお話をします。

 昨日兵庫県で5人の方が亡くなるという事件がありました。その前には中学一年生が、神奈川県で殺害された事件がありました。その前には海外で、テロリストに日本人が殺害されるという事件もありました。痛ましい事件が多いと感じます。

 それにあたって、自分たちは無関係であると思ってはいけないなと私は考えています。

 たとえば、ある事件では若い、未成年が容疑者として逮捕されました。それに対してまず、親はなにやってんだ、というような声が挙がります。親のしつけがなってないから子供がああなるんだというような、親を責める声が挙がることが多いと思います。大きな声になると思います。

 しかし、それを思うに、それ以前に、そういった少年であるのであれば、第一に被害にあっているのはそのご家族なんではないかと思うのです。家庭内暴力といいましょうか。

 もう、家族の方でもどうにもならんような少年であれば、そういった犯罪を犯してしまうこともあるかと思います。また、犯罪があって裁判の報道に触れると、精神鑑定によって無罪になるケースもあります。そのことも、無関係であると、遠目から眺めていてはいけないと思います。

 病気になりたくてなる人はいないんです。明日、自分が、家族がなんらかの病気になって右も左もわからなくなって、そういった、例えば犯罪であったりすることを起こしてしまう、ということも、私には関係ない、ありえないということは、誰にも言えないわけです。

 もし、あれが私だったら、家族だったらと思ったときに、どれだけ現実の生活の中でそれが辛いことであるのか、大変なことであるのか、ということにも思いを寄せて、決して根からの悪者であるから犯罪であるとか、悪いことをしたから厳罰に処すべきだと、一方的に断じてしまうのは、おたすけのうえからは物足りない考えではないかと、そのようなことも思っております。

 

 今日は、おたすけということ、たすかるということについてお話をいたしました。少し余分なこともお話しました。

 本日はけっこうにおつとめをつとめさせていただきました。誠にありがとうございました。