だめのブログ

丸山道慶が書いています

179年5月神殿講話 熊本地震といんねんとお道具のご守護

 ただいま結構に5月の月次祭のおつとめを、鳴り物の調べも結構に、てをどりの手も揃ってつとめさせていただきました。
 誠にありがとうございます。神殿講話をつとめさせていただきます。
 
 先月は当教会の春の大祭で、大教会役員先生から講話を頂戴しまして、たくさんお話いただきましてので、今月は少し短めにしようかと思います。
 今月は大教会の仕切り月です。5月と10月に、みなさまのご真実をおぢばに御供えさせていただこうと、例年のことでもありますが、今年も大教会長様からお声を頂戴しまして、皆様にもお伝えさせていただきます。よろしくお願い申し上げます。


熊本地震
 4月に大きな地震がまた九州地方でありました。
 14日の晩だったと思うのですが、震度7ということで大変おどろきました。
 ただ、さすが阿蘇山のふもとの地域だけあって、現地の方々は比較的落ち着いて対応なされているんじゃないかと、まあ遠方ですので私は感じていたのですが、まさかその後にもう一度、本震と言われる大きな地震が来たのは驚きました。
 熊本市直下ですので非常に大きな被害になりまして、今なお復旧復興ということで避難されている方が多くいらっしゃいます。

 私たちもお道の信仰者ですから、おたすけの上からも何かしなくてはと思います。今のこのおつとめも、被災地の方に助かってもらいたい、早く復旧が進めばいいと思いながらつとめさせていただきました。かといって現地に行ってなにかお手伝いすることもままなりません。
 天理教の動きを見ますと、すでに災害救援ひのきしん隊が現地でおたすけ活動を展開されています。ホームページなどを確認しますと、熊本教区、福岡教区、鹿児島教区、宮崎教区、奈良教区、おやさと教区から災救隊が4月18日、19日からすでに復旧活動をしてくださっています。
 一番大きな揺れを計測した益城町に入っているようです。
 
 天理教の災救隊はただのボランティア集団じゃないというお話を以前しました。それは設備もきちんと整っていて、それから全国の都道府県単位、今回で言えば熊本教区や大分教区など、地元で長年、地域の方々のための活動を展開してきているその母体がありますので、すぐに自治体と連携が取れるわけです。
 これは、長年活動してきて、年に一度はそれぞれの教区で訓練として地元のどこかをお借りして、たとえば整地や除草のひのきしんをやらせてもらっていて、自治体とのパイプをもっているのですぐに要請がくるわけです。
 要請がなければ現地に入れませんので。
 トラックを何台も持っていって、ショベルカーを持っていって、人に関しても、地元の方々は遠方から来る災救隊の隊員を受け入れるひのきしんをしてくださる。ですから迅速に現場に入れるんです。
 自治体としても、天理教さんここをお願いします、と言えば、装備も整えて持ってくるし、ごはんも自分たちで済ますし寝るところも確保してあるし、そして活動するわけですから、これが、天理教災救隊の一番の強みであるんだと思います。

 今回の地震後も、一般のボランティアの皆さんがたくさんかけつけて下さるのですが、人は行っても、自治体が受け付けてここでこれを使ってこれをしてください、ということができないわけです。
 混乱が大きい内はそれが自治体にとって負担になってくるわけで、それが元でトラブルに発展することもあったりします。
 ボランティアに行くんだという皆さんの気持ちが高まってくるのは、日本という災害の多いところにいるからこそだと思うのですが、発生直後というのは混乱していて受け入れられないという現実を今回広く学ばせてもらえたかと思います。

 ものを送ればいいかと言えば、物流も、報道されているように混乱していました。
 道路がダメ、建物がダメ、自治体からの救援物資も、受け入れ態勢が整わずに届いているけど集積場に降ろせないという問題もあったようです。
 ですから個人的に物資を送るということも、災害直後は控えようということも学べました。輸送にかかるコストを、遠方の私たちが消費しないようにしよう、ということです。
 では、なにができるのかというと、やはりまずは、義援金、義損金、募金、ですか、そういうことですね。特に遠方の我々にできる第一のことはそれだと思います。

 私たちは、教区としても大教会としても特に今回こういうことをするという打ち出しがありません。天理教の募金窓口は道友社にあります。
 救援募金は今、どこでもできます。テレビでもできますし、スポーツチームなんかも活動しています。どこでもいいんです。ただし、自分の一番信頼のおける組織、団体に募金をするのがいいと思うんです。使途が明らかになります。
 天理教の場合は二つの募金を設けています。
 一つは、熊本県大分県などの被災自治体にお届けをするものです。
 もう一つは、天理教の災救隊や、天理教の熊本教区、大分教区などで使っていただく予算にまわすものです。
 一つは自治体にいく、もう一つは教内の関係者でつかってもらうもの。という風になっています。

 天理時報にも載っています。そのコピーを用意しましたので、よろしければお持ちください。
 また、おぢば道友社のお店でも募金の受付をしています。明後日から私もおぢばに行きますので、直接お預かりしてお届けもいたします。


 被害状況は、熊本の教務支庁が、熊本城のすぐ近くに広い敷地であるそうなんですが、それが全壊で危険だということで、更地にもうなっているそうです。また、全壊や半壊の教会も多くあるそうです。
 個人的ではありますが、妻方の親戚が八代市にありますが、そこは大きな被害もないようでした。また、学生時代大変お世話になった先輩が熊本にいらっしゃいますが、被害に遭われて避難生活を送っているようです。


【いんねんと道具の理】
 明後日おぢばに行きますと言いましたが、何をしに行くかと申しますと、おぢばで三ヶ月過ごして勉強したりする修養科というのがありますが、その修養科の、教養掛補佐として、5月後半から6月末まで、詰所での世話取りをさせてもらってきます。
 ですので、来月6月の末まで教会におりませんので、6月の月次祭にはおりません。どうぞよろしくお願いいたします。
 ほかのことはともかく、とにかくおつとめを陽気におつとめいただきたいと思います。
 
 私は5月の中旬に合流するのですが、修養科生さんたちは3月の末からもうおぢばで修養科生として生活をしております。私も3月の24日の受付からおぢばで生活を始める何日かを一緒に過ごしてきました。
 その顔ぶれは、11名ですが、全員よふぼくでした。これはすごいなあと思ったんですが、ある人に、すごいですね、と言ったら、「君はおさづけ拝戴の勉強させてもらえないんだね」と言われまして、それはその通りで、それはそれでもったいないと思いました。
 そのメンバーは、80歳の方で自分で商売を興して息子さんに代を譲ったから来たんだという人。教会の後継者で60代で今まで職人をしてたけど会長交代になるので、先日教人講習を終えてきた人。60代で海外でビジネスやってて、日本に帰ってきて2つ3つ会社を経営していたという人、この春に天理高校2部を卒業した若い子。社会福祉協議会の副会長などを務めているというご夫婦がいたり、なんだかすごい顔ぶれだなあ、と思いました。
 これは世話取りの必要がないんじゃないかと思うくらいです。
 詰所で慣れない中でも何も言わないでもどんどん動いてくださって、終わりにしてくださいと言っても終わらないくらいの熱心な方が揃っていました。
 修養科に行かれた方はよくわかると思うんですが、いんねん寄せて守護する、と言います。これはなかなか大変だなあと思いまして。何日かやってるうちに、誰も人の話聞かないなあと思いました。
 
 先日5月はじめにおぢばがえりしてきた際に修養科生のところに顔をだして、若い人にどうですかと尋ねてみましたら、大変だと言っていました。
 やっぱり衝突してしまって大変ですと。そうだろうなと思いました。ちょうど1ヶ月過ぎて誕生祭もありましたし、疲れもピークですし、余裕がなくて周りに目がいかなくなっちゃうだろうなと。
 私は、その時、「そうだと思うよ」と、こう言いました。最初から、こうなるだろうなとは思っていたけども、そうだと思うよ。と。
 皆ほんとに真面目で、君たちも熱心だし、人の話を聞かない人が多いなと思っていて、教養掛も含めてそうだけど、自分の話をするのは上手だけど、話を聞いてもらった覚えがないな、と思ってたら、誰が一番話聞かないかって俺が一番話し聞かないんだよね、みたいなことを話してました。
 
 だから、人の話を聞けないというのは、聞いてもらえないということは、自分が人の話を聞かせてもらう3ヶ月だと思うよ。と。相手のことを聞かせてもらうという、その勉強の3ヶ月だと思うよ。
 この、修養科で出会った人たちとは、いいかい、一生付き合っていくんだよ。そういうタイプの人たちが、君たちの人生で一緒に暮らす相手だよ。
 とこう話しました。
 その、本人じゃなくても、似たような人と一生君たちはかかわっていくんだよ、と。これは歴史が証明しているんだ、みたいな話をしました。
 ただし。ただし、苦手な相手だけじゃないんだよ。いい人、たくさんいるでしょう。仲のいい人たくさんいるでしょう。そういう人たちもずーっと一緒にそばにいてくれるからね。と。
 だから、相手の話を聞かせてもらうと言うことが大事だと、そういう修養科の3ヶ月だと思うよ。
 はい。はい。と聞かせてもらうその心は神様がお受け取りくださる。じゃあ私が聞かせてもらうなら相手も聞けばいいじゃないかと思うかもしれないけれども、それは、自分が先に聞いてごらん。そしたら相手もきっと聞いてくれるようになるよね。
 お互いにお互いの言い分がありますから、どちらかだけが良いということはありません。まず自分が聞く。聞いて欲しければ自分が聞く。これが教祖のお教えくださった順序というものだろうと思うんです。

 神様が人間に身体をお貸しくださる。八つのご守護でこの世界人間身の内を常にご守護くださっている。火水風、飲み食い出入り、皮つなぎに骨つっぱり、切る引き出しのご守護ですね。
 そして人間身の内もご守護くださって、道具をお貸しくださっているわけです。
 目、耳、鼻、口、両手足、男女一の道具です。
 その道具を、どう使うのかということは、それは、心次第に自由に使えるわけです。
 
 耳というのは聞く道具です。何を聞くかといえば、人の、良い話を聞く道具です。
 目というのは見る道具です。親神様のご守護を見せていただく、人の良いところを見せてもらうのが、目の正しい使い方です。
 口は喋る、食べたりもしますが、言葉を出します。何を話すかといえば、教祖のお話を人に伝えさせてもらう。人の良いところを褒めるための道具です。
 それを、人の嫌な話ばかり聞いたり、聞き耳を立ててみたり、人の悪いところばっかり見たり、人の悪口ばかり言うということは、これは、間違った使い方です。

 道具というのは使い方を間違うと壊れるものなんです。
 正しい使い方をして大切に使えば、いつまでもいつまでも使えますよ、とそういうことを、教祖がお教えくださっているわけですから、おぢば、修養科に限った話ではなく、私たちの日常のことでありますから、嫌だなと思った時には、自分は嫌なものを、言わない、聞かない、見ない。自分は相手に聞かせない、見せない、嫌な匂いはかがさない、ということを心がけるんです。
 なんで私ばっかり、ていうのは、それはなぜかと言えば、私は教祖のお話を、相手よりも先に聞いているからなんです。自分はそうやればいいんだということを知ってるんです。相手はまだそれを知らないだけなんです。
 信仰というのは、許す心だと思います。
 教祖が、ごくろうさん、と声をかけ続けたお姿こそ、信仰の第一の姿ではないかと思っています。

 これからおぢばに行ってまいりますが、修了後どうなっているかはまた7月のお楽しみにしていただきたいと思います。
 
 本日は以上です。ありがとうございました。