179年2月神殿講話 心定めと聖地巡礼とおぢばがえり
ただいま当教会の二月の月次祭のおつとめを、寒さ大変厳しき中ですが結構ににぎやかに陽気におつとめいただきましてまことにありがとうございます。神殿講話をつとめさせていただきます。
今年は暖冬だ暖冬だと言ってまして。去年の暮れから正月明けてもまだ暖かかったのですが、それから急に寒くなって冬らしい日が続いています。今日、昨日付けで群馬県全域にインフルエンザ警報が発令されたそうです。手洗いうがいをしっかりする。外に出るときはマスクをする、基本的なことをしっかりきちんとやっていくというのが大事だと思います。お互いに気をつけましょう。
【教祖百三十年祭を終えて】
1月26日、教祖百三十年祭がおぢばでつとめられまして、春の大祭でもあります、無事に教祖年祭の祭典がつとめられましたことをご報告いたします。その前が特に西日本を中心に大寒波でした。西日本特に九州地方の方大変だったようですが、当日は寒さも和らいで良いお天気の下、祭典がつとめられました。
約20万人の方が参拝におぢばに帰られたそうです。
私は、都合がありまして当日26日におぢばに帰らせていただいたのですが、考えてみれば当日の市内の道路は大丈夫なのかと心配でした。詰所までたどりつけるだろうかと。
ですが非常に順調で、ちょうど祭典が終わる頃の時間になってしまいまして、車がまったく走っていないような道路状況でした。それから参拝をさせていただくことができました。
詰所も大変にぎわっていて、先日もお話しましたが、正面玄関のスロープも出来上がっていて、ありがたかったです。
年祭活動として、大教会全体で一丸となって取り組んできた奉献神願300万件ですが、その300万件まであと13万件だと言っていたのが12月の話ですが、1月23日の大教会大祭にあがりました奉献神願を含めて、3年間の合計が3,064,916件ということになりました。
本当に皆様のおかげで、数の上でも目標に届いて教祖にお喜びいただけたと思います。またそれぞれが人様の助かりを願うという上で、成人させていただけた、そんな年祭活動だったと思います。
年祭の祭典は終わりましたが、年祭があってもなくても、我々の日常と言うのは親神様のご守護の下に繰り返されていくわけですから、どうぞまた気持ちを新たに歩ませていただきましょう。
私事ですが、年祭活動が終わったと同時に厄年も終わりまして無事に前厄も本厄も後厄も大したことなく最後の最後に財布を盗まれるという珍事がありましたが、それも無事戻ってきまして、よかったなと思っています。
【ご報告ご連絡】
一つご報告しておきます。
私事ですが、役職が一つ増えまして、昨年の12月付けで上級教会の准役員ということで辞令をいただきまして、何をするのかよくわかっていませんが、上級の上に役に使っていただけることになりました。
それから何日か前に手紙が来まして、月次祭のおつとめの前に「さあたすけづとめ」というのを私が前で読ませてもらっていますが、おつとめをもっておたすけを進めることこそが私たち教会の原点であり使命であるのだ、というその「さあたすけづとめ」を新しく改訂したということでした。
今月から早速使わせてもらおうかとも思ったのですが、今月は今までどおりにやらせてもらって、今後はちょっと相談したいと思います。
毎年大教会の役員先生が巡教に来ていますが、その連絡も来まして、今年は4月10日、春の大祭に合わせてになりました。以前にもいらっしゃった先生ですのでご連絡しておきます。
日曜日に当たると思いましたのでどうぞ皆さんでお参拝ください。
【信じれば信じる理がまわる】
年祭も終わりましたので、何をお話させてもらおうかと考えまして。
私は年祭活動に重点をおいて物事を考えるのもどうかと思っているのですが、年祭活動を振り返りますと、会長交代させてもらったということも教会にとって大きなな出来事だったと思います。私も家族にとっても個人にとっても大きな事柄した。
その中で、会長になる前に、おそらく二年前か三年前か、私が教会長資格検定講習というのに一ヶ月くらいおぢばに行っていた時の話なんですが、お風呂で大教会のある先生にお会いしました。
今年の冬に会長交代させてもらいます、とその先生と話をしました。そうしましたら、君のところの会長さん何かあったわけじゃないんだろ、と言われました。私は、はい、元気なうちに交代したいとそれぞれ考えていましたので、と返事をしました。
そうしたらその先生が、色々あると思うけれども、踏ん張って頑張ってやっていくように、とこう仰るんです。よく意味がわからなくてポカンとしていたら、先生が、会長が変わるとか、そういうときには教会というのは特に色々起きるものだ。節があるもんだ、とこう仰る。
教会の役員さんや信者さんが大きな身上になったり、出直したりとお見せいただくけれども、そこを乗り切ってしっかり通らせてもらったら良くなるでと、こう言うんです。
ああなるほど、と思いました。
その後どんなもんかと思っていたのですが、割とスムーズにお運びも奉告祭も終えましたのはご承知の通りです。
私が会長になって間もなく、その先生の部内の教会が、会長交代になりまして、そしたらその教会の責任役員さんが、若くて元気な方でしたが急に身上で倒れまして、しばらく入院したという話が聞こえてきました。
なるほど。と思いました。以前からその先生の話も聞いていて大変厳しい先生だと思っていまして、そういう話を聞いて、ああなるほどな、と思いました。
信じれば信じる理がまわるというのは、そういうところに現れるのかと。
大変なるで大変なるで、と、難渋起きるで、と言ってると、場合によっては、考え方ですが、ちょっとゆがむと、難渋起きないと困るなという考え方に、下手すると陥るんです。
何があっても結構だなと通らせてもらうのが教祖のひながたですから、色々あるで悪いことあるで、あるかもしれんで、年祭だからそういうことがあるんだよな重なるんだよな、といっていると、それを神様がお見せいただくこともあるのかなあと思ったりもするんです。
何もない。それが一番結構なことなわけですから、そういうように歩ませてもらうのが良いです。
【心定めってなんだろう】
では、教祖にご覧いただくその姿。我々が日々通らせていただくその中に、何をどんな心で通らせてもらったらいいのかと。
祭文にも奏上しましたが正月二十六日というのは2月18日頃ということで、正に今日この時期なんです。百三十年前のちょうど今頃です。
その頃に教祖が身上差し迫り、それでもなお周囲の方々におつとめをせよと急き込まれた、その中に、繰り返し繰り返し教祖は心定めということを仰るんです。
じゃあ心定めってなんだと。
よく教会に人の心定めなんてのが貼ってあります。初席何名とか修養科何名とかあります。それも一つの心定めかもしれませんが、数の上での目標とか、何々をやらせてもらいたいとか、目標をただ立てることが心定めではないわけです。一般的な意味で心定めと言えばそうなのかもしれませんが、教祖のお望みになる心定めということは、正に読んで字のごとくで、心を定めるということなんじゃないでしょうか。
定めると言うことはどういうことかと言えば、心の向きを定めると言うことです。
心の向きをどこに定めるのかといえば、それが、おぢばなんです。
心の向きを常におぢばに定める。定めるということはぶれないということです。あっち行ったりこっち行ったりしないということです。あっち行っても、元が定まっていたら元に戻せます。それが、心を定めるということであって、心定めということです。
ですから教祖はあの時に、私の身上のこととか、警察に連行されることとかそういうことではなくて、49年にわたって言い続けてきたんだから、とにかくつとめをせよ。おつとめをつとめるんだということを第一に考えてくれよ、ということを、最後の最後までお言葉の上にお教えくださったのではないかと思うのです。
心の向きをおぢばに定めて、日々の行いは教祖のひながた、背中を追う。これが教祖がお教えくださった、人の生き方というか、よふぼくの通り方でもあり全ての人の歩み方ではないかと思うのです。
こんな時どうしよう、あんな時どうしようというのは、教祖が50年にわたって実際に身に行って残してくださったひながたがあるわけです。だから我々はどんな時もおぢばを向いていられるわけですし、どんな時も教祖のお背中を追って歩いていくことができるわけです。道は教祖がつけてくださった。
こういうことが、私は、信仰というものの第一義なのではないかと思います。
【ひのきしんと聖地巡礼】
以前から何度かお話をさせてもらっていますが、ひのきしんというのは、第一にはおぢばがえりを指すんだよ、と、私はよくそういう言い方をします。
24時間365日地球上全てにおいてご守護くださっている親神様にお礼を申し上げる。親が喜んでくれることをする。それは第一にはまずやっぱりふるさとへ里帰り。教祖に元気にご挨拶に行く、帰る。
これが親が一番喜んでくれる姿であるならば、おぢばがえりがひのきしんであるんだよ。
おぢばがえりをすることはなかなか大変だというのもよくわかります。それぞれが土地ところでそれぞれの働きを、役割を神様からいただいていますので。だから、おぢばの出張り場所である教会でなにか御用をさせてもらうですとか、それぞれの職場や家庭の中でお客さんや家族のために日々の働きをさせてもらうことがひのきしんになるんだよ、ということを言ってきました。
そのおぢばに心が常に向いているか。何かあったときに「おぢばに帰らせてもらえるかな」と最初に思い浮かべることができるかな、ということが大事なことなんだと思うんです。
おぢばがえりとは、一般的に言えば聖地巡礼です。
パワースポットと呼ばれる場所があって、総本山と言われるようなところや、世界にも聖地と言われるところがありまして、そこに信者が行くことですね。信者にとってはそれが生きていく上での大きな目的の一つでもありますし、善行の最たるものです。これが聖地巡礼です。
我々にとっての、言わば人類にとってのおぢばがえりである、ということです。
ただし、おぢはが自分たち天理教の聖地であるから、そこに行かせてもらうことが良い行いである。だけではないですよね。それは最初に言った、自分の心がいつもおぢばに向いているから、だからありがたいんだよ、ということを教祖がお教えくださったんです。
信じれば信じる理がまわる。
誠の心。教祖が大好きなその心を、年祭後の今、かみ締めて通りたいと思います。
4月、上級教会のバス団参です。ぜひ一人も多くの方を、お友達を、ご家族を誘ってみんなでおぢばに帰らせていただきましょう。
それから夏にはこどもおぢばがえりです。今年も教会で出させてもらいますので、そういうのをご利用いただいて、今年もおぢばに行くんだと、一度二度三度と是非心に留めていただけたらと思います。
私はもうよふぼくだから別席運べないとか、私は修養科出たから修養科行かなくていいとかそういうことではなくて、よふぼくだから別席を運んでない人をお誘いする。別席運び中の人がいたら、ぜひまた行きましょうと声をかけさせてもらう。修養科どうですかの一声をかけさせてもらう。そういうものがあるんだよという声をかける。
おぢばでは三日講習会というものもあります。そういうものがあるんだよということを、知らない人に教えてあげる。知っていても私には関係ないという人に、そんなに無関係じゃないんだよと声をかけさせてもらう。これが大事なことだと思います。
私がおぢばに帰れるかしら、だけではなくて、誰か一緒に帰れないかしら、というところまでお考えいただくと教祖によりお喜びいただけるのではないかと思います。
【おぢばに帰れるようになる心がけ】
じゃあ、じゃあです。おぢばがえりをしたいさせてもらいたいと思って、そのために日々どうさせてもらったらいいのか。どうやったらみなさんで一人でも多くの方とおぢばがえりができるのかなと考えてはいるのですが、なかなか答えもないんですが、とにかく、毎日、一日一日を明るく、元気に通らせてもらうこと。
これがおぢばがえりへの種まきになるんじゃないかと思うんです。
朝起き正直働きと、教祖がお教えくださっている、それを実践していくことがそれが、おぢばに呼んでいただける、小さいけれども一番確実な方法なのではないかと思いますので、どうぞ、風邪ひかぬように気をつけていただいて、毎日元気に明るく通ってください。
以上でお話を終わります。ありがとうございました。