だめのブログ

丸山道慶が書いています

178年10月神殿講話 災救隊行ってきました

 ただいま10月の当教会の月次祭のおつとめを、始まるときには寂しいなと思ったのですが、少年会もがんばってくれて、けっこうにおつとめをつとめさせていただけました。まことにありがとうございます。
 お天気も、暑くなく寒くなく風もちょうど良く、いいお日和をいただきました。神殿講話をつとめさえていただきます。
 
 先月9月はにをいがけ強調月間という一ヶ月間でありまして、特に28、29、30日を全教一斉にをいがけデーとしてつとめさせていただきました。ご苦労さまでしたありがとうございます。
 今月10月は大教会長様よりお打ち出しの本年2度目の仕切り丹精の月ということでお声をいただいております。先月もお願いいたしましたが、どうぞよろしくお願いいたします。
 大教会長様も今年、本部の准員にも登用されたということでよりご本部の御用にお使いいただけるそうですから、またお声に我々もお応えさせていただけたらと思います。

 先月9月10日に月次祭をつとめさせていただきましたが、ちょうどその日は栃木茨城豪雨の日で、朝からずっとテレビでテロップが流れている状態で、鬼怒川がまさに今決壊するというそういう時でありました。
 私もおつとめの前と、この講話の時間にも被害に遭われている方が早く救難されますように、また早く復旧復興が滞りなくすすむようお願いさせていただきましょうと申し上げました。
 その3日後、13日の日曜日、支部のひのきしんに行きましたら、支部長さんから、災救隊が出動することになったと聞かされまして、そんなことを言っていた以上、二つ返事でわかりました行かせてもらいます、ということで、災害救援ひのきしん隊に出動させてもらいました。
 
 災救隊というのは、災害救援ですので、災害が起きました被害が出ました、さあ行きますというので、今日の明日出動ということが多いのですが、今回は第二次隊ということで、19日からの3日間の出動でして、少し準備ができました。
 災救隊は、昭和46年に正式に災害救援ひのきしん隊ということでご本部で結成されたそうです。全国規模の災害救援組織。各都道府県ごとに、群馬でしたら群馬教区隊、東京でしたら東京教区隊という風に置かれている組織である、ということです。
 もちろん昔から有事の際にはお道の人たちが集って助け合うというのはあったわけですが、正式に組織されたというのは昭和46年だそうです。45年くらい前になるんでしょうか、そういう歴史になります。
 
 私個人としては災救隊の隊員になったのはまだ2年くらい前の話ですので、今回初めて本番の出動ということになりました。今日はそんな話をします。

 出動したのは、鬼怒川が決壊したという、茨城県常総市です。茨城県なので北関東自動車道まっすぐ行けば着くのかと思っていたのですが、前橋に集合して出発して、北関東道を佐野藤岡インターチェンジで降りまして、国道50号をまっすぐ行った辺りでした。
 私たちの馴染みのあるところで言いますと、つくば科学博というのが30年ほど前に開催されましたが、その近くでした。
 
 話が前後しますが、災救隊というのは、信頼と実績といいますか、実際の災害の際にももちろんいち早く出動して現地でひのきしんさせてもらってるわけです。
 今は何かあるとすぐ民間のボランティア団体が結成されて、自治体が県外のボランティアを受け入れるということになれば、すぐに登録した人たちが駆けつけます。救援物資を持って個人で駆けつける人もあるし、登録したボランティア団体の募集があれば、一日でも半日でもと言って何かできることをやらせてもらう、ということをやっています。
 まさにこの阪神淡路大震災東日本大震災など、大きな災害ごとに民間の助け合いの輪というのが広がっています。もちろん桐生市からも大勢の方がボランティアしてくださっています。災救隊もそういったボランティア組織と言えばその通りであります。
 一つ違うと言えば、長い時間かけて培われた実績と、自治体からの信頼ですね。それが大きいので、第一に、大事なところを、真っ先に任せられるというのが、事実としてあります。
 それから災救隊の謳っているところでもあるのですが、自己完結型の組織を目指しているということです。自己完結型の組織とは何かといいますと、わかり易いたとえでは自衛隊などはそれにあたります。自衛隊以外の組織というのは、たとえば被災地に赴く救急や消防というのはそれぞれ役割が決まっています。たとえば橋が壊れていて行けないとなったときに、その橋を架けるのはたとえば国土交通省の許可がいるとか、建設の許可がいるということがあります。警察や消防は勝手に橋を架けたりということはできないのですが、自衛隊にはそういう権限が与えられているとか、現地での食料や風呂、そういった生活設備も自衛隊は全部自分たちで物資を運んで設営をして、救援を行って撤収して帰るということができる。そういう意味で自衛隊というのが災害救援の際に活躍できる最大の利点でありまして、それを自己完結型の組織と言っていいと思うんですが、災救隊もそういったものを目指している、ということがその他のボランティア団体と違うところなのかな、と思います。
 たとえば宿舎がなければテントを張ってテントでキャンプをして、その場で自分たちで持ち寄った機材食材で、隊員たちの食事を作るということもできます。そういうことができます。またたとえばトラックや重機、シャベルカーなどですね、そういうのを調達して被災地に赴いて必要な設備を使用して復旧や支援活動にあたることができます。そういったことが得意ですので、任される場所も、民間のボランティア団体がまだ入れないようなところも入らせてもらうことができる、ということもあります。

 土砂崩れとかなどが起きたとしますと、車がが入っていけなくなったりします。そうすると専門の部隊がそこをまず車が通れるようにしなければならないわけですが、専門の部隊というのは大きな場所に行きます。国道ですとか県道ですとか、主要幹線を先に通れるようにしなければならないです。そういうところに行く手前の、生活道路といいますか、そういうところまではすぐに手が回らないです、復旧が遅れるというか。しかし地元のかたがたにとっては第一になってくるので、その後方支援的なことで、材木や危険のものを取り除いたりとか、そういう部分も真っ先に任せてもらえるような、そういうこともあります。

 話を戻します。今回我々が行かせてもらったのは、学校でした。
 第二次隊でしたので、第一次隊の3日間はその現場には東京教区が入っていました。その後に我々群馬教区隊と埼玉教区隊が行きました。
 東京教区がお昼まで入っていた現場に、お昼から我々が入ることになりました。

 そこは、私の身長よりも高いところまで水が押し寄せた、そんな学校でした。
 現地に行くと校舎の前に、コピー機とか印刷機とかスチール製の大きなロッカーとか、そういうのが泥にまみれて置かれていました。
 校舎の一階が完全に水に浸かっていましたので、まずやらせてもらったのは高圧洗浄器で壁や床の泥を落として校舎の外に掃きだすという作業を半日やらせてもらいました。
 使い物にならないのかなあ、と思いながらコピー機やロッカーなどの泥を落とすこともしました。
 電気も水道も止まったままですから、どこかから持ってきた大きな貯水タンクと発電機を使っての洗浄です。
 水害によって甚大な被害にあって、それを綺麗にするのもまた水なのだなあ、と思いながら、一生懸命に洗っていました。

 私は二日目の出動には別の学校に行くことになりまして、そこには700人の方が当初避難していたそうです。その学校は少し高台なので水が来なかったのですが、避難所に指定されていました。
 私たちが行っていたのが19、20、21日で、ちょうどシルバーウイークでした。連休明けには学校再開したいので校舎の消毒をしてくださいということで、医療用の消毒液を、生徒たちが使う校舎、特にトイレをずうっと消毒させてもらってました。

 三日目には初日の学校に戻りまして、今度は校庭がぬかるみでどうにもならないものですから、車も入れないです。とにかく校庭の片隅に積み上げられたゴミ、というか廃棄物をトラックで搬出するための、トラックが通れる道を作る、という作業を、重機を使える人がやりました。私たちは水で壊されたウサギ小屋やニワトリ小屋の解体作業をやってくださいと、そういうことをやらせてもらいました。
 昨日も1ヶ月経ったということでテレビで特集がやってまして、その地域はブラジルの方が多いと言ってました。言われてみれば避難所に行った時に、トイレの張り紙、水が流れないのでバケツで流して、バケツにまた水を汲んでおいてください、ということが日本語と、多分ポルトガル語なんだと思うんですが、そういう張り紙がたくさんしてあったなあと思い出しました。
 私たちの宿舎は、公民館みたいなところを貸してもらっていました。お寺の敷地内に公民館があって、本堂を茨城教区の災救隊、公民館の方を我々各教区隊に貸してくださいました。

 災救隊出動となると、県、茨城県から、教会本部の災害救援ひのきしん隊本部に連絡がいきまして、その本部から、今回は関東6県の教区隊へ出動要請があったんだそうです。その本部の先生から区長さんをご紹介くださいまして、区長さんからご挨拶をいただきました。
 水が来てとても大変でした。テレビにも映っていましたが、車が流されそうになっている。その流されそうな車の窓から間一髪泳いで逃げ出した人もいるんです、という話をしてくださって、実は何を隠そうあれは私なんです、なんていう話を聞かせてもらえました。
 区長さんは命からがら助かったんです。今回。だから、ほんとに助けを必要としている人がいるというのをよくわかる。だから是非救援隊の宿舎に使ってもらえるのであれば使ってくださいということで、快く貸してくださったそうです。
 ですので今回は、寝るのも食事も、屋根の下でとることができました。
 お風呂も用意していただいて、少し離れた土地の入浴施設を利用させてもらえまして、とても広くて綺麗なお風呂を使わせていただけました。非常にありがたいことでした。

 さっき言いましたように私たちが行ったのは学校です。現実的な問題として行政というのはお金がないです。災害救援という際にも今回激甚災害に指定されたので国の方からも予算が出るとは思うのですが、学校の現場に予算が回ってくるのはかなり後になってくるんだと思うんです。
 私たちには、ある、市の職員さんがつきっきりでいてくださいまして、ここをやってください次はあそこをお願いしますと指示してくださってました。
 本来そういうところに、天理教の人間ですから、宗教の看板を掲げたところは、教育現場に入ると言うのは難しい判断なのですが、今回やってくれということで、連休明けの学校再開に向けてお願いします、ということでやらせてもらえました。
 
 最初に言いました、私の背よりも高く水に浸かったという学校だけは、連休明けの再開には間に合わなかったですが、それ以外の学校は連休明けに再開できたということで、喜びの声をいただいたそうです。
 その、市の職員さんがまず第一にこんなことを我々に仰いました。
 水害があった後、学校の職員、先生方、ほんの十数名しかいらっしゃらない、その方々が途方にくれて、暗い顔でうつむいて、何から手をつけていいかわからない状態だったそうです。そこに、災救隊がやってきて、みるみるうちにすべての物を運び出して片っ端から泥を落としてくれた。三日間でここまでこれました。ようやく、教員たちの顔が明るくなって笑顔になりました。さらに今は民間のボランティアの方もたくさん駆けつけてくれて、どんどん校舎の中が綺麗になっていくその様を見て、教員たちがほんとに明るくなり、大きな声で皆さんを迎えてくれるようになったので、本当に助かっている。というお話を、職員さんが話してくれました。
 天理教の人たちがやってくれたということは、申し訳ないが言えないけれども、皆さんのこの天理教災害救援ひのきしん隊の青いヘルメットを見た住民の方たちがきっと語り継いでいってくれることと思います、というありがたいお言葉をいただいて帰って参りました。
 
 今回、私は災救隊で被災地というところに初めて行きました。行く前にテレビで見ていたような、いわゆる凄惨な景色というのを想像してというか覚悟して行ったのですが、東日本大震災津波被害の現場なども映像で見ていますので、胸が詰まるような景色が目の前に広がってきたらどうしようかと思ってバスに乗っていったのですが、実際はそんなことはないな、というのが最初の率直な感想でした。
 やっぱり映像と言うのは高いところなり見張らせる場所から、遠くの方から全体を撮っているんですよね。被害状況がわかり易いように撮っています。映像で見るのと、現場で人間の目の高さで眺められる範囲で見るというのは、これはまた違うんだなというのがよくわかりました。
 映像で見るような、見晴らす限りの被害と言うのは見えないのですが、その分、同じ目線でというか家の中まで見えるんです。そこここで、家財を全部運び出して泥を落としているご家族の方ですとか、目の前で金網のフェンスが基礎ごと全部道路に倒れているとか、道路の上にも泥が固まっていてそれを何とか避けて通行していく車、それはもう正に日常の中に被害がありました。何も、特別なというか、どこかの世界の物語ではなく、生活感があふれているけど家がない家財がダメになった何もかも失った、という方々がたくさんいらっしゃった。
 我々は行って作業して、夜になれば食事をいただいて次の日に備えて寝て起きてまた作業をさせてもらう、帰れば家がある。しかしその方々は何もなくなった、というそういう姿が、目の前に広がっていました。
 我々は何もできないです。行ってお手伝いして帰ってくることはできるかもしれないです。救援物資を送る、義援金を送るとことはできるかもしれませんが、その、家財を片付けている方々に我々がなにができるかなと。たとえば時間があって現地に行くことができて、行ったところでなにができるかとなれば何もできないと思うんです。
 一人の人というのは無力だなと思ったんです。思ったと同時に、この方々に真っ先に必要なものは何かな、と思ったら、やっぱり、誰かが隣にいて寄り添ってあげる、一人にさせないということも、これはやっぱり大事なことなんだな、というのを、感じた三日間でありました。
 ですから、なにかができるできないということではなくて、大変な人がいて辛い思いをしている人がいたら、何もしてあげなくてもいいし、何も言ってあげられなくてもいいけど、しばらく隣に寄り添ってあげる、手を握って同じ時間をすごしてもらう、ことが、私は、おたすけというものの第一歩というのであるのかな、ということを、災害救援ひのきしん隊というものを通して、改めて感じたところであります。

 隣にいて、寄り添って、お話相手になるだけになるかもしれない。それが、うつむいて声が出なかった人が少し目線が上がって、何かをやり始めるきっかけになるかもしれない。それでもダメな人はダメでしょうけれども、ただ一人で落ち込んでる人にとって、誰かが一緒にいてあげられたらなによりの励ましになるのかなあ、ということを感じてまいりました。

 今日はそんなお話をさせてもらいました。
 まだまだ現地は復旧最中であります。また自然のことですので、今後またどこかで必ず、災害というのは発生します。そのときには助け合いの心というのを学んでいる我々は、なにかやらせてもらう。また、自分たちに災害が降りかかってくるときのための備えをそれぞれにしておくということも大事かと思います。

 以上です。ありがとうございました。