179年1月神殿講話 教祖年祭と日本人の信仰と感謝の心
新年あけましておめでとうございます。昨年中は教会の上にまたそれぞれのお役の上にお世話になりました。まことにありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
昨年の暮れから暖かい冬で、まだ赤城山が白くなったのを見ていないなと思ったのですが、新年明けてもありがたいことに暖かい日が続いておりますが、風邪もはやっているようですので気をつけてください。
本日は教祖百三十年祭の年の最初の月次祭を、ただいまけっこうにおつとめをつとめさせていただきました。曜日も重なって3歳から85歳までの、80歳以上の年齢差のおつとめを教祖にご覧いただくことができまして、教祖さぞお喜びのことと存じます。
今の教会は少年会が非常に頑張ってくれていまして、今日も小学生を中心におつとめに出てくれました。皆なにをやらせてもすぐできるというか、練習を頑張ってくれているので、今日も事前に言っていたわけではないのですが、これをあれを頼むと言えばはいと引き受けてすぐにやってくれるようになりました。
これもひとえに大教会や教区の総会や、その練習に送り出してくれる親御さんご家族、またつたないながらも子供たちが一所懸命頑張る様を暖かく見守ってくださる皆さんのおかげです。どうぞまた、ともどもに育てられたらいいなと思っていますので、今後ともよろしくお願いします。神殿講話をつとめさせていただきます。
今日は祭儀式の中で、教祖に祭文を奏上しまして、いよいよ今月26日がおぢばで教祖百三十年祭の祭典が勤められます。ここのところずっとそんな話ですが、教祖百三十年祭、三年千日のスローガンが大教会から打ち出されてもう3年以上。諭達が発布されてから3年と3ヶ月になるわけです。
いよいよ今月26日に当日を迎えます。
昨年、大教会から、大教会としてひとつにまとめておぢばにお供えしたいと、大教会長様の思いでお供え袋をお配りさせていただきました。今日改めて神様にお供えをしました。上級を通じて大教会の春の大祭に、お供えをさせていただきます。高いところからですがお礼を申し上げます。ありがとうございました。
【教祖百三十年祭、年祭の意義】
百三十年前です。教祖は明治20年、正月26日に教祖がお姿をお隠しになりました。
当時は警察の取締りの大変厳しい中、非常に寒い季節です。今の暦で言うと2月18日頃だそうです。非常に寒さ厳しき中、この命どうなってもという者だけおつとめをするという、初代真柱様をはじめおぢばの先生方がおつとめをつとめて、そして十二下りが終わる、なむてんりわうのみこと、と唱えられたそのときに、お姿を隠された。
それから百三十年だそうです。
年祭活動、年祭活動と10年ごとにやってまいりまして、今回も3年間、おたすけをさせてもらいたい、真柱様が、おたすけのできるよふぼくを一人でも増やしたいと諭達で掲げられて、よふぼくの集いを開催したりそれぞれの土地ところでいろいろな活動にはげませていただいて参りました。
年祭のために何かやる、ことではなくて、年祭というのは、教祖にお喜びいただきたい、その姿を教祖にご覧いただきたい。教祖のお喜びになることはなにかと考えたときに、やはり最終的には陽気ぐらしの世の中なのですが、今はまだそこに向かう途中でありますから、一人も多くの方が一人も多くの方をおたすけさせていただく、互いに助け合う暮らしを一つでも多く教祖にご覧いただくことが、教祖がお喜びくださることだ。だから年祭という旬にそれをご覧いただこう。
これが年祭の趣旨でありますから、年祭活動もその一環として行ってきたわけであります。
ですから、年祭のためにやってきたことではなく、年祭が終わっても続けていくためのことですから、今日も4400件以上の奉献神願をお供えさせていただいて、用紙に書くということは先月申した通り、本日で一つの区切りをつけますが、また2月の月次祭には皆さんがご家族ご友人、お困りの方ご身上の方事情の方、助かりを願っておつとめをつとめさせていただく、続けていくことが大事ですので、お願いを申し上げます。
年祭のおぢばがえりをということは企画しておりませんが、4月に上級の団参があります。パンフレットも預かっていますので、ご覧ください。ぜひ一人も多くの方とおぢばに帰らせていただきたいと思いますのでよろしくお願いします。
【家族のおぢばがえり】
おぢばがえりと言いますと、昨年の話になりますが12月の26日から28日までおぢばがえりをさせていただいて、信者さんと別席を運んで参りました。
年祭の前になんとかおぢばがえりをと色々私も言ってきましたが、そういえば自分の家族とおぢばがえりしてないなと思いまして、夏の子供おぢばがえりは毎年行っていますが、それ以外におぢばに帰らせてもらってないな、と申し訳ないというか残念だと思っていました。
週末におぢばの月次祭が重なった時におぢばに行きますと、詰所や境内地で家族連れとすれ違うのですが、家族で参拝というのもうらやましいなと思っていました。
ちょうど冬休みですから声をかけたところ都合がつきまして、妻と次男と一緒におぢばがえりをできました。
今詰所の一号館の正面玄関に車椅子が出入りできるようにスロープを普請してくれています。今までは階段しかなくて足の悪い方にはご不便だったのですが、年祭に間に合うようにしてくださっています。また、2号館のエレベーター設置、トイレの洋式化と合わせて、皆さんにとっても詰所も使いやすくしてくださってますので、どうぞまた一人も多くの方とおぢばに帰らせていただきたいと思います。
おぢばに帰りたいという方がいらっしゃったらぜひお声かけください。なるべく都合を合わせます。
【教会に参拝に来る子供】
おつとめをつとめながら思ったことがありまして余分な話をしますが、今日は学校が休みで子供たちが月次祭参拝してくれて、まあ大半の目的はみんなで遊ぶことなんだと思うんですが、それでもこうやって来て、おつとめの時間に文句も言わずにおつとめを、座りづとめから前半まで鳴り物を勤めてくれる、またてをどりを勤めてくれる。これは非常に私は、教会長という立場もありますから、嬉しいと思います。
逆に、我々の感覚としては麻痺してしまっていて、はいはいいい子だね、程度で終わってしまうかと思うのですが、少し立場を置き換えますと、たとえば、親戚の子でも近所でも子供の同級生の子でもまあなんでもいいんですが、その子が、学校が休みだったのでお寺で座禅を組んできたとか、日曜礼拝に行って賛美歌を歌ってきたとか写経をしてきたとか言う子がいたらですね、なんて立派な子なんだと思うと思うんですね。
それは信仰のあるお互いですから、どういう風に親御さんがその子にお話をしているのか、ご家族がどのように日ごろ接しているのかわかりませんが、そういうことをする子がいればこれは大したもんだきっと立派な人になるに違いないと、私は思ってしまうんですが、それに近いんじゃないかと思います。
そういうことを今、正にしてくださっているのがありがたい嬉しいことだと思います。
【教会の原点、使命】
教祖の年祭ですから、一つはおたすけをさせてもらうのがよふぼく信者の通り方の一つであります。そして、どこまでも50年のひながたでお急き込みくださったのはおつとめの完成であります。教会の原点とは、おつとめをもっておたすけをすすめることだと聞かせてもらっています。
おさづけの取次ぎというのはこれはよふぼく一人でもできます。いつでもどこでもできます。
その願い、願うことの、元の、つとめというのは毎月26日のおぢばのかぐらづとめです。
教会で10日につとめるのは、その日しか許されていないからです。皆でおつとめ着を着てお扉を開けておぢばの理をいただいてつとめるというのは10日じゃないとダメなんです。
教会というのはおつとめをつとめるんです。10日におぢばに向かって、かぐらづとめの理をいただいておつとめをつとめるのが教会なんです。これはよふぼく一人ではできないんです。
この教会につながるよふぼく信者のみなさんが、この10日のこの時間にこの場所で、おぢばに向かって教祖にお教えいただいておつとめをつとめさせていただくところに、親神様のご守護、いわゆる奇跡のご守護みたいなものも目に見えて現れるということも近くなるわけです。
そのおつとめをつとめる一人一人を増やすなり育てるなりということも教会の使命であり役割であります。それは早くからこのお道の教えを聞かせてもらった先輩方が、まだ知らない人々に声をかけて教会のおつとめをつとめられるように、座りづとめの手をどりから鳴り物から、段々に手をどりや笛、鼓、三曲までできるように、これは時間のかかることですが、やらせていただくというのが、教祖のお喜びくださる教会の姿ですので、そういう意味で、非常に今日はありがたい日だなと思わせていただいたところです。
【日本人の信仰心と感謝の心】
正月ということでもう一つお話させていただきます。
神殿のそこに、書初めを並べて貼っておきました。今年は元旦に書初めをしようとなりまして、その日いたメンバーで今年の抱負を書いてみました。まあご覧の通り抱負でもなんでもなくなっていますが。というのも毎年クリスマスにクリスマス会を子供たちとやっていたんですが、昨年都合が合わなくてできなかったので、、なにか宗教行事をやらせてもらいたいなと思いまして、書初めをしてみました。
お正月やお盆というのはお嫁に行ったり遠く暮らしている家族が里帰りをします。交通が非常に混雑して帰省ラッシュなんてニュースになります。
実家に帰ってお正月、何をしますか。ということです。
私は実家にいることが多いので、あまり正月実家に帰るということが経験ないのですが、実家に帰る、親戚のところに行く、という時に何をしますかと。
割と多く聞くのが、初詣に行ったというのを聞きます。暮れに里帰りをして正月になになに神社、なになに大社に初詣に行きましたと。また、お墓参りに行きます。お盆ですね。
そこには、信仰があると思うんです。天理教の、南無天理王命の信仰とは厳密に言うと違うのですが、良い悪いの話ではなくて信仰があります。初詣に行くとかお墓参りに行く。その信仰の現れた行いを、実家に帰ったときにするんです。
それは、やっぱり生まれ育った場所だからそういう心が根付いているんですね。親がいた、そのまた親がいてそのまた親がいたその土地に、遠くから帰ったときにその幼かった頃を思い出して参拝に行き、一年のことを祈願したりご先祖様にお願いやお礼をしたりするわけです。それは信仰の行いです。
そう考えたときに、やっぱり生まれ育った場所と言うのは自分の信仰の原点でもあるわけです。
信仰の原点に立ち返ったときにやっぱりご先祖様に手を合わせるという、日本人なら大体そういう心は持ってると思うんです、大きいと思います。親に感謝する、先祖代々に感謝するという心は持っていると思います。
親戚が集まると、子供たちも集まりますよね。いとこやはとこも集まってきます。
そうなると先祖代々に感謝をしながら、自分の子供たちこの先どうなっていくのかな、元気に育ってくれればいいなという願いも込められると思うわけです。どうぞ守ってくださいという願い。
そして、自分たちも段々にこの子達を守ってあげたいなという風な思いになると思うんですね。
過去への感謝、お礼が、今度は子供たちという、自分の未来に対しての感謝お礼につながってくると思うんです。これは、初詣やお墓参りといったような我々に身についた信仰の中から見えてくるものだと思うんです
そこを、もうちょっと考えていくと、今日はちょっと細かく話しませんが、その先にあるのが、今現在の自分に対する感謝、というものにたどり着くんです。これがいわゆる信仰であったり、悟りと言われるものであっていいと思います。
どこかから思いが始まって一周ぐるっと回って、外に向かっていったお礼が自分に戻ってくる、自分に対する感謝になってきます。そこに自分にあふれているものに対する感謝が、もうちょっとそれは何かな、と思ったらそこに、南無天理王命があるわけです。
一番の原点がそこにあるわけです。
親神様の絶え間ないご守護というものが原点にあるから、今全てのことがあるんだよ、ということが、そういったことからも汲んで取れると思うんです。
ですから、信仰というものは、このお道に限らずに、親から子へ、子から孫へ、また、子孫から先祖へとつながっていくわけですから、一人が一人につないでいくということをとても大事にしたほうがいいと思うんです。
一人が喋ってその他大勢が聞いて納得して信仰が始まるというものではないと思うんです。だから、たくさんのよふぼくが必要なんです。だから教会もたくさん、土地ところに必要なんです。一人のすごい人がそれっぽいことを言って大勢の群集が納得して始まる信仰ではないんです。一人が一人を助けていくところに、本当の信仰が生まれるわけだと思うんです。
それを教祖がお教えくださったんだと、私は思っています。
私は何もできないから、何もできませんから、ではなく、あなたが、そこにいてくださることが、周りの方々の助けになっているんだよ、ということを、ぜひ、今日、正月ですので申し上げたくて、そんなお話をいたしました。
どうぞ教祖の年祭の年でありますから、元気に今年一年通らせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いをいたします。ありがとうございました。