だめのブログ

丸山道慶が書いています

178年7月神殿講話 おさづけ効きますか?

 ただいま当教会の月次祭のおつとめを結構につとめさせていただきました。誠にありがとうございました。神殿講話をつとめさせていただきます。
 今月は、奉献神願が3000件を突破いたしました。3103件ということでした。教祖百三十年祭の三年千日の活動として始められたものですので、二年半以上、大教会として続けているわけですが、数が増えてきているというのはどういうことかと考えました。これは、助かっているんだ、ということなんだと思います。「それをすれば、なるほど助かるじゃないか」ということが我々の中ではっきりと見てとれるようになってきたんですね。ですからこれを、してくださいと人に勧めるようになったし、書いてる者、我々も、助からないからやめようということがないんです。だからこうして皆様が続けてくださっているのだと思います。
 年祭だからということではありませんが、来年の一月、教祖百三十年祭まで、教祖にお喜びいただける、この、おたすけのうえの奉献神願を続けて参りたいと思います。よろしくお願いします。

 連絡ですが、第一に今月こどもおぢばがえりがご本部で開催されます。当教会は7月27、28、29日でやらせてもらいます。
 引き続いて、群馬教区少年ひのきしん隊があります。こどもおぢばがえりで、中学生が一週間親元を離れておぢばに伏せ込むのですが、去年、教会の長男が中学一年生で行ってくれましたが、今年も参加してくれる予定です。もう一人、男の子が行きたいと言ってくれていて、今のところ教会から2名、おぢばのひのきしんに行ってくれる予定です。顔を見たらぜひ皆さんからも激励してあげてください。
 来週の日曜日19日の話です。暑い中ですが、先月中止になった支部のひのきしんがあります。私は所用で欠席になりますが、ご都合の付く方はぜひご参加ください。草刈のひのきしんです。
 それともう一点。先の話ですが8月30日、ひのきしんスクールが群馬県で開催されることになりました。内容は依存症です。ギャンブルやアルコール、タバコ、今はインターネットやゲーム、いろんな依存症のおたすけに関するひのきしんスクールというのが8月30日に開催されます。春に当教会に巡教に来てくださった先生が講師の一人としてお見えになることになってます。先着50名ということなので、参加希望の方はお早めに声をかけてください。

 今月は何をお話しようかと思ったのですが、年祭ということで、おたすけの話をさせてもらないといけないと思いまして、おさづけの話をさせてもらいたいと思います。
 質問をします。お答えいただかなくて結構ですが。みなさん、おさづけ、効きますか?
 よふぼくの方が多いので質問しましたが、そう質問されたときに、みなさん、なんてお答えしますか?
 私も最近聞かれることも少なくなりましたが、学生時代、天理大学の寮に入っていて、何人か仲の良い人間で集まるとそういう話もします。裏話で、大きな顔で言う話でもありませんここだけの話にしてください。
 海外部といって海外布教をしたりするような部署に勤務してた奴なんかが言うのは、海外布教に行くとおさづけはすごい効くね、と言います。有名な先生が出かけると、宿舎の前に毎朝行列ができるそうです。助けてくれ治してくれと。そういった話もよく聞きます。
 本部の青年さんとか、私の知り合いも今コロンビアに行っているのがいますが、そうするとおさづけ取次ぐとたちまちご守護があるなんていう話を聞きます。

 じゃ国内じゃ効かないのか。っていう話になりますが、そんなことないと思いながら、ある友人がこう言うんです。これはまあ、正直な本音だと思うんですが、「おさづけってあんまり効かないよな。効いてくれないと説得力ないよな」って言うんですよ。
 なるほどそうだな、と思いました。布教してる者からすれば、どこか悪いところないですかと訪ねて、じゃあ天理教のおさづけというのを取次ぎますとやって、ああ良くなりましたとなってくれれば、そんなありがたいことはないんですが、なかなかそうはなりません。
 海外に行けばなんでそうなのかな、という話もしますが、私はそのとき、日本というのは文明が進んでいてそこら中に病院があって保険制度も充実してるので、みんな教会に来る前に病院に行くようになっちゃったので、効く効かないの前に取次ぎの機会も減っちゃったのかもしれないし、もし日本に医者がなくて、その町によふぼくがお前しかいなければ毎朝お前の家の前に行列ができるに違いないよと言うんですが、それは本音の部分ではなるほど効いてくれないと説得力がないという言葉にも説得力があるよなあ、とそんな話をしたりします。

 そいつが言うには、教祖がおさづけを下さるときに、「道の路銀や」と言ってくださったわけだから、お小遣いみたいなものだと思うんだと言うんです。だから、好きなものを好きなときに好きなように買えないとお小遣いじゃないんだと。なるほどそれもそうです。
 道の路銀と教祖が仰ったということですから、路銀とはなにかと調べてみたんですが、路銀ていうのは現金のことというよりも、旅費のことだと書いてありました。旅をする時に持って出たお金を路銀といったそうです。
 このお道の旅というのは、おたすけの旅だなあと思うのです。

 旅費を持って旅にでます。特に昔は交通も未発達ですし宿泊もないし食事もろくにとれないそんな旅だったと思うのですが、その際に現金なんかいくら持ってても実はあまり役に立たないんです。現金と言うのは、それだけでは、紙幣であればせいぜい物を拭いたりとか、硬貨であればなにかにぶつけたりとか、それくらいしか、物としては役に立たないんです。
 現金と言うのは、その時になにか必要なものに交換して初めて役に立つんです。
 であれば、教祖が道の路銀やと言ってお渡しくださるこのさづけというのも、困っている方、病んでいる方、その方に今必要なものを何かと、それと替えて、こうしたらいいんですよ、と教えてあげることが、これが、おさづけなのか、一言はなしと言われるゆえんなのかと思います。あなたが今助かるには、病んでいるそれがどういう神様のご守護なのか、ということをその方に、替えて差し上げるという、これがおたすけ、おさづけなのかなあと思うところです。
 だから、ただ取次げばいいというものじゃない。熱が出たら解熱剤を飲めば熱が下がるというものじゃない。対症療法ではない、という、これが、おたすけおさづけなんだろうと思います。
 
 ここで最初の質問に戻ると、おさづけ効きますか。と聞かれたときになんと答えましょう。
 なお、私はおさづけ、効くんです。これは割りと有名な話でもあります。
 
 私がおさづけの理を排戴したのは大学1年生のときです。18歳のときです。
 天理大学の受験しに行ったときに、あまりにも受験勉強していませんでしたから、受験当日に朝かんろ台の前に行きまして、親神様なんとかお願いしますと合格祈願みたいなことをしてしまいまして、ただお願いするだけじゃ受からないだろうなと。その日に受験する全員がお願いしてるだろうから、何か約束させてもらなきゃいけないなと思いまして、もし合格できたら毎月一席別席を運んで、今年中によふぼくになりますのでお願いします、と言っておつとめをして受験したら、なんと合格してしまいましたので、約束どおり毎月空いている時間に別席を運びまして、その年のうちによふぼくになりました。
 
 学生寮に入っていましたので、周り中お道の子ですから、おさづけに対しての抵抗というのはないんです。
 ある日仲のいい友人が熱を出して苦しんでいたので、よしおさづけ取り次がせてもらうぜと言っておさづけを取次ぎました。
 次の日にその子の部屋に様子を見に行きましたら学校から帰ってきたところでした。あ、おさづけ効いたのかよかったなと思って聞いたら「すごい効いた」と言われました。
 すっごい効いて、今日も朝から学校朝から行けてよかったんだけれども、三日寝てれば良くなるであろう、その三日分の苦しみが、昨晩一晩に押し寄せて来て、死ぬような思いをしたと言われました。凝縮した密度の高い苦しみを、三日間分の集大成を一晩で経験して治るのが早まったと、こんなことを言われました。
 それはおさづけが効いてるのかなと不安になりましたが、時を仕切ってと教えられたので、明日の朝までにとお願いをしたのが良かったに違いないと思いながら、じゃあまた何かの時にはおさづけを取次がせてもらおうと言ったら、二度とごめんだと言われてしまいました。
お前におさづけ取り次いでもらった一晩苦しむくらいなら三日間寝てる、とこう言われました。

 なぜかその話が広まりまして、誰もおさづけを取次がせてくれなくなってしまいました。
 困ったなあと思っていたある日、夜、一人の先輩が部屋にやってきました。
 古い体質の寮でしたから、一年生は人間扱いされないような寮で、先輩と言うのはとにかく偉くて怖い存在だったのですが、その先輩が部屋に呼びに来たんです。これはまた何かやってしまったのかと心配しながらその先輩の部屋に行きましたら、おさづけ取り次いでくれと言うんです。
 え。いいんですか。と驚きました。いや実は私はこれこれこういう、、と言おうとしたところ、先輩が四の五の言わずに取次いでくれと先輩が言うものですから、わかりました、と言って取次ぎました。
 どんな理不尽なことを言われようとも正しいのは常に先輩ですから、なんとか助かってもらいたいと、なにかあっては困ると思って真剣に神様にお願いをしました。
 次の日、ビクビクしながらこっそり様子を伺っていましたら、先輩が元気に寮から出て行く姿が見えました。これはよかったなと思いました。
 後々聞きましたら、その日はクラブの試合かなにか、大事な用があったのでどうしても体調万全で出かけたいという先輩の事情があったそうで、諸々承知で丸山のところへ、おさづけをお願いしに行ったということでした。
 「大丈夫ですか」と聞きましたら、生死の境をさまよった、みたいなことを言ってました。

 これは半分冗談話で、笑い話みたいなものであります。
 しかし、ここに半分、おたすけ、おさづけというものの本質が含まれているのではないかと思います。
 その先輩は、どうなっても助けてほしかったんです。そのときの先輩の心と言うのは、丸山頼む、という願いではなかったはずです。なんとか、親神様、教祖にお助けいただきたい、どうなっても、苦しんでもいいからお願いしますというその心が、神様に届いたのだと思います。私は何もしていません。教えられたとおりにおさづけを取次いだだけです。
 誠の心というのは神様に願う心、きっとその先輩にも心に定めたところがあり、神様と約束をして助かりを願った、そこに、助かる姿というのがあったんじゃないかと、私は思います。
 
 学生時代にそんなことがありまして、今でもそんなことはあります。
 私の長男の中学生が、本番に弱いことで有名でして、部活の大会の日に熱を出すわ、中学校の入学式に熱を出すわ、修学旅行に行けば熱を出して電話がかかってくるわと、色々本番に弱いタイプです。
 普段元気なのですが、そういうときには体調崩すので、じゃあおさづけ取次いでもらおうと言うと、嫌だというんです。父ちゃんのおさづけはしんどいから嫌だと。子供が言うくらいだからほんとにしんどいのかなあと思います。
 でも、本当に体調の悪いときには、おさづけ取次ごうかと訪ねるとはいお願いしますと言うんです。おさづけ取次いでもらうと神様にご守護いただけるということを本人も知っているし、その願う心が神様に届くんですね。疑う心には神様お働きくださらないのです。神様にもたれるというのはそういう姿だと思うんです。
 神様が、こうすれば助かるよと言ったことに対して、正直に素直な心でそれを受け取って行動していくそれが、信仰の姿でありますし、そうして通る中で、神様にいかにご守護いただいて、いかに抱きかかえられてお守りいただいているか、ということが、わかってくるのが信仰の姿だと思います。
 
 そういう上で、おぢばがえりをはじめ、それぞれにできるおたすけをさせてもらってください。
 ひとつはおさづけのお取次ぎ、ひとつは、教会でのおつとめ。月次祭のおつとめ。またそれぞれのご家庭でのおつとめなどできることがあると思います。
 またおつとめ以外にも、それぞれの日々のお役目の中で、ご家族の中で、人のために行っていることそれらすべて、お助けにつながっているのだ。自分の働きが誰かのためになっているのだということです。
 年祭で、たすけの旬、たすかる旬と言われているのは、新たなお助けをしなさいしてくださいという一面もありますけれども、もう一つ側面として、自分も人のためにおたすけをしているんだ、という認識を持つ。ということは、自分も誰かに助けられて日々暮らしているのだということを良く心に留めさせてもらう旬なのかなあと思います。

 まとまりませんが、本日のお話は以上でございます。ありがとうございました。