だめのブログ

丸山道慶が書いています

177年6月 神殿講話 (奇跡のご守護と神様の望まれるもの)

 ただいま皆様と6月の月次祭のおつとめをつとめさせていただけました。誠にありがとうございました。
 神殿講話をつとめさせていただきますので、お楽な姿勢とお楽な心でおつきいただきたいと思います。

<ご連絡、ご報告>

 先月5月は、大教会の仕切り丹精を大教会長様からお打ち出しいただきまして、当教会でも皆様にお願いを申し上げ、おかげさまで大教会を通しておぢばへと、皆様のご真実を運ばせていただくことができました。
 5月16日に上級にお供えをしてまいりました。
 また10月にも大教会長様から仕切丹精のお打ち出しをいただくことと思いますのでその時にはどうぞよろしくお願い申し上げます。

 5月26日のおぢば月次祭の翌日に、新任教会長の集いというのがおぢばでありました。年に2回あるのですが、その半年の間に新しく会長になった人がおぢばに呼ばれまして、二日間お話を聞いたり練り合いをしたりします。
 また二日目のお昼は、真柱様からご招宴ということで、本部の食堂で皆で食事をいただくという、そういうものがありまして、行ってまいりました。
 帰ってきますと、すぐに、6月の1日には、皆様と、上級教会の合同おつとめ総会にださせていただくことができました。
 良い天気で、35度くらいある日曜日でしたけれども、当日の会長様のお話では272名の参加者があるということでしたが、当教会からは20名、子供からご年配の方まで行っていただけまして、小さな子供もおつとめ衣をつけておつとめをつとめていただけました。
 誠にありがとうございました。
 続いて大教会の当番が当たっておりまして、5日に神殿奉仕をつとめてまいりました。
 
 この後ですが、6月の29日にはいよいよ、よふぼくの集いが支部で行われます。午前中に終わりますので、どうぞ皆様そろってお出かけいただきたいと思います。


<よふぼくの役割とは>

 そういうわけで、今日のお話ですが。
 新任教会長の集いに行ってきましたが、そこには参加者が全員、教会長なわけです。教会長とその配偶者です。
 朝から70分くらいの講話を2つ聞いて、午後は練り合いをしました。会長と、配偶者と、少人数で別れて練り合いをします。
 皆なりたての会長ですから、会長になってから嬉しかったことはなんですか、とか会長の役目とは何でしょう、といったテーマで話し合いをしました。
 私の中でちょっと不思議に思ったことがありまして、他の会長さん方がお話になる中に、教会においておつとめをするという話がでなかったんですね。
 にをいがけやおたすけということは熱心にお話くださるんですが、教会でおつとめをつとめる、月次祭のおつとめを皆さんでつとめるんだよ、という話が私の番になるまで出なかったものですから、とにかく月次祭のおつとめを皆でつとめさせてもらうのが、私は大事だし、嬉しい事なんですという話をしてきました。
 考えてみると、山名だから、というのがあるんじゃないかな、と思いました。山名の教会というのは以前からとにかくおつとめ、おつとめ、おつとめ、と声を大にして言ってくれています。大教会長様が先頭に立って、おぢばだ、おつとめだ、と。
 これは大教会の初代会長様に話を戻しても、遠州の地でかぐらつとめをつとめたいんだと教祖様にお願いして、遠州でかぐらつとめをつとめさせてもらったという歴史もあります。
 だからこそ、とにかくおつとめだと言ってくれてるんだと思います。そのおかげで我々はまず第一におつとめに思いがいくわけです。
 そうではないところも、にをいがけやおたすけだと熱心にお話はくださるわけですが、私はなににおいても、よふぼくのつとめ、特に教会の上でのよふぼくのつとめとなれば、それは、「おつとめをもっておたすけをすすめることこそ教会の原点であり使命である」とお聞かせいただくように、まずおつとめがでてくるわけです。
 そのためには、みなさんがこの、お許しをいただいた日にお許しをいただいた場所である教会に集まって、おつとめをつとめることが大事だよ、という話をしながら、ああ、山名の大教会長様はそういうことをきちんと教えてくれるんだなありがたいな、と改めておぢばで感じてきました。


<神様の奇跡のご守護>


 また、大教会の当番に行ってきた時ですが、神殿で待機するときにやることがないものですから、御守り所で本を読むんですが、教祖伝逸話篇を読んでました。
 逸話篇を読むと、力比べの話が多いですね。力自慢、身体の大きい男の人に、手を出してごらんと相当な高齢である教祖様が仰って、力比べをして、まったくかなわないといったような話がいくつもでてきます。
 改めて御守り所でこの逸話篇を読んでました。逸話篇てかいつまんで話を聞くことが多いんですがまとめて読んだことはそういえばなかったなと思いまして、非常に面白いものですから、今日はそのお話をしようと思いました。

 神様がこの世お始めになって人間をおつくりになって今もなおずっとご守護くださっている、そこにおいて、お道の、天理教のお話の中でよく出てくる不思議なご守護、奇跡のご守護ってありますね。
 医者がさじを投げた病気がおさづけ取次で治ったとか、おぢばがえりをして動かなかった脚が動いた、見えなかった目が見えるようになったという話は多く聞かせていただいてます。実際あるんです。
 教祖様の時代のこの逸話篇を読んでも、治らないと言われた小さい子供の皮膚病が鮮やかに治った、気の迷い、今で言うところの脳の病気でしょうか、そういうものも薄皮をはぐようによくなっていったという、そういうエピソードは山ほどあります。

 この力比べの話もそうです。人間の考えではありえないことが、教祖様の前にはあるんです。神様ですから、教祖様というのは、あるんです。
 また、教祖様、そこでずっと座っていて退屈でないですか? とお付きの方が尋ねると、懐からお花畑を見せてくださって、なるほど教祖様は世上のことはなんでもご覧になってるんだなあ、というような話もあります。
 超常現象のような話ですが、教祖様ですから、あるんです。今なおそれは、あるんです。
 力比べもその一つだと思うんです。普通に考えたらそんな力は出ないんですよ。でもそれは、出たんです。何人もの人に教祖様はお見せになった。
 明らかな事実として、教祖様は怪力みたいなものはあったし、何十日も断食をして大丈夫だったという、これは歴史的な事実です。当時は生身の人間でしたけれど、できたんです。


<おやさまが教えたかったもの>


 これを思った時に、教祖様というのは、なんでもできるんだと思うんです。教祖様にできるということは、親神天理王命にできないことはないわけです。やろうと思ったらなんでもできる。できるんだけれども、しないんです。
 それはなぜか。例えば、親神天理王命に願う。願う誠の心には神は働くんですね。神様なんとかしてくださいと言ったら、神はやろうと思ったらできるんですが、我々が期待するようなご守護がなかったりしますね。ない方が多いでしょうか。
 それはなぜかな、と思ったんです。できるのにしないのは、なぜかと。

 そこが、私は、このお道の教えなのかな、と思ったんです。
 教祖様がやるんじゃないんだよ。お前がやるんだぞ、という。あなたがやるんだよ、という、その助けるやりかた、それを教えてくれたのが、教祖様なんです。
 願うことを教えてくれたんじゃないんですね、助けるということを教祖様を通して、親神天理王命がお教えくださった。
 人が、人のために願う。そのことを教祖様が教えたんです。誰かが教祖様に、あの人を助けてくださいお願いします、私を助けてくださいお願いしますと言っても、その力はあっても教祖様はそれをなさらなかった。
 できるんだよ、ということを示すために力比べをした。やろうと思ったらできるんだよと。
 もっと言ってしまえば、親神天理王命が、この世の中を陽気ぐらしにしてしまおうと思ったら、私はできると思うんですよ。極端な話ですが。
 でもそれをしない。それはなぜかと言えば、なんのために人間を作ったのかと言えば陽気ぐらしをさせたいためなんですが、陽気ぐらしの世の中というのは、人と人が助けあう世の中だからなんですね。
 その姿が、一番人間が幸せな姿だからなんですね。いくら助かっても喜べない。いっくら病気が治って健康であっても、不足ばっかり言ってたらその人はやっぱり幸せになれない。
 逆を言えば、生まれついての病気や、事故などで思うとおりに身体が動かないような方でも、幸せだなあと言って暮らしていらっしゃる方がたくさんいらっしゃるわけです。
 だから、教祖様は力比べまた不思議な姿を見せてくれた。ですけどもそこは、この教えの本質ではない。
 なんで不思議なことを見せたか見せるかというのは、それは人助けをしてほしいからなんです。
 あなたを助けるために不思議な守護を見せたんではないんです。あなたに、あなた以外の人を助けてもらいたいからなんです。またはそれを話の台として話の種として、人助けの輪が広がっていくように、最初の歯車を動かしてほしくて、止まっている車を動かすには非常にエネルギーが要りますから、その最初として、そういったものをお見せくださった。


<おたすけの基本的な姿>


 そういう話が逸話篇の中にいっぱい出てくるんだろうなと思います。
 こういうことをしたらこういうご守護があった、けれど、似たようなケースで同じようなことをすれば同じようなご守護があるかと言えば、そうではないんですね。その時々によって、求められているもの与えられているものは違いますので、それを見極めてこういうふうに今神様がお望みなんじゃないんですかね、ということを噛み砕いていくのは、これは我々の役目だと思います。
 だから、おつとめをすれば、御百度まいりをすれば、日参をすれば、奉献神願を毎日書けば、そうすればなるで、という正解はないんです。だから、一人ひとりが一人一人を助けていく道なんです。
 
 今回のよふぼくの集いの話も、表統領先生の話なんかを聞きますと、「教団が」ということや「教勢が」という話をします。
 全体が盛り上がっていかないと盛り上がっていかないというのは確かにわかります。しかし、今の時代、例えばですが天理教以外の勢いのある教団を見ますと、あ、うまいな、と思うんですね。やり方が。
 全体として、今の日本の法律の中で、こういうふうにやれば信者さん会員さんを増やせるとか、そういうことが非常にうまい。
 だけれども、そのやり方は、神様の望んでいるやり方とちょっと違うんです。上手な仕組みをつくって、例えば今だったら印刷物いっぱい作ってとか、若い人でも入ってきやすい形をとって、聞こえのいい話をすれば、それはそれなりに人数は増えるでしょうけれども、その人達が本当の意味で幸せになるには、やっぱり一人が一人を助けていかないといけないんですね。
 だから、教団、教勢は一時期にくらべて衰えはあるかもしれない。しかしそれでも私達は教祖様が教えてくださったそのやり方で、一人が一人の人を助けていく、その道なんです。
 不思議なご守護はないかもしれない。奇跡のご守護はないかもしれない。だけれども、その前提として、もうすでに私達は、神様のご守護を身体いっぱいいただいているんだということがあるんです。
 あなたはお願いをしたけれども助からなかったですね。そうじゃない。すでに助かってますよね。そこからおたすけははじまるんです。
 神様のお話というのは、あなたはすでに助かってますという、そこから始まっていくのが本来なんですね。

 かと言って神様のお話を知らない人にそういうことを言ってもわかりませんので、色々なところからお話を始めさせてもらうのですが、こちら側の思いとしては、すでに神様に十分お守りいただいて、十分必要なものはお与えいただいているね、結構ですね、というところから話が始まっていくのが、この道の神様のお話であります。


<日常の中のおたすけの一例>


 と、私は思ってるんですね。
 そういうことも含めてこのよふぼくの集いに行くと、皆さんおたすけしませんか、となるんです。
 先月の話をした中に、人助けになればいいなあと思って育成会やPTAの役をやらせてもらってますと言いましたが、この土曜日に育成会の指導者の研修会がありまして行ってきたんですが、夜、飲み会があって、おじさん20人ぐらい集まって飲むんです。地域の集まりですから。
 私は酒やめて二年以上経ちますから、非常におもしろくないんですね。酒の席が。
 とっとと寝ようと思っていたんですが、一応昭和地区の看板を背負ってましたから、付き合い悪いと思われるのも嫌なので、8時から11時半までの二時間半、周りはどんどん盛り上がって行く中で、一人でつまんねーなーと思いながらずっとご飯食べてたんですけど、そういうところにいるのもまた、ひとつのお助けになるのかなと。

 地区の、私以外の育成者、行きたくても行けない方々がたくさんいらっしゃるし、そういう方々の、代表ではないですけれども、丸山が行ってくれたからと安心してくれる人もいると思うので、その人の代わりに行ったと思えば、ひとつのおたすけになるだろうと。
 また酒飲まなくてもこういう席に付き合う人はいるんだよ、ということを周りの人にわかってもらいたいという思いもあって。
 こうやって飲み会ガンガンやるから飲めない人が集まらないんだよみたいなことも思ったりもしますので、そういうことは言いませんけれどもお付き合いをしてきました。
 そういう形のものもあると思います。その中で、例えば、呼ばれて出席をする、お祝い事、慶弔様々あると思いますし、地域や学校でのお呼ばれの席に参加するのも、きっかけとして、おたすけにつながるものがあると思います。できることをひとつやる、というのはそういう身近なものであると思います。

 正にこのよふぼくの集いが終わりますと、教祖130年祭の年再活動の大きな活動が一つ区切り、また次のステップへと上がりますので、くどいようですが、今月は改めて、おたすけのきっかけの話をした次第でございます。


<まず、なにをすればよいだろう>


 すみませんあと一言だけ。では、なにをすればいいんだということですが、今言ったように外に出かけて行くこと、自分にできることを人に向けてやらせてもらうこと、これは本当に大事なことです。
 神様の話をしなくてもいい、おさづけ取次がなくてもいい。神様行ってきますとわざわざ言わなくてもいい。何かできることをやっていくことこれはおたすけにつながります。これは先月お話したとおりです。
 で、その先月お話した中に、お守りを持ちましょうという話をしました。これは日日それぞれができることだから、おぢばの証拠守りであるお守りを身に付けましょうというお話をしました。
 もう一つ、基本のことです。大教会に行くと書いて貼ってあります。朝起き、正直、働き。
 少年会で教えます。こどもおぢばがえりで朝のおつとめで真柱様がお話くださいます。朝起き、正直、働き、この3つ。そして、お守りを身に付けて通らせていただく。ここから、おたすけがはじまります。
 もう何十年私は聞いてきたでしょうか。これが、皆さんできているでしょうけれども、これができていることは、おたすけが始まっているんだよ、これがすでにおたすけなんだよ、ということです。
 朝起きる、正直に通る、自分の身の周りのはたらきをする、これがもうすでにおたすけなんです。そういう皆さんに自分たちも助けられている。

 この、3つの種と、お守りを肌身離さず身に付けさせていただくこと、ここからおたすけが始まります。
 そのことを踏まえて是非よふぼくの集いに参加させていただきたいと思います。
 以上でございます。