177年2月 神殿講話
ただいまは、当教会2月の月次祭のおつとめを、結構につとめさせていただきまして誠にありがとうございました。神殿講和をつとめさせていただきますのでお楽な姿勢とお楽な心でお付き合いくださいますようお願い申し上げます。
まずはじめにご報告です。先月1月はご本部おぢばの春の大祭でございました。大教会ではお参拝の信者さん方に、教祖ご在世当時の食事を召し上がっていただきたいということで、この日の詰所の朝食は昼食を兼ねまして茶粥を振舞っています。
明治20年正月26日、教祖が現身を隠されたその日を思って、警察政府の弾圧の中命捨ててもとおつとめをおつとめになった当時の先生方を思って、いただくわけであります。
その茶粥のお世話どりに詰所ひのきしんに行ってまいりました。
続いて2月5日には、大教会の神殿奉仕の当番に初めて当たっておりまして、静岡県に行ってまいりました。会長になりまして大教会の神殿で教服を着て座るというのを初めてやってまいりました。
大教会と言っても普段の日ですから特にお参拝の方が多いわけでもないんですが、ただ黙って結界の中に座っているわけで、30分交代で座るのですがその間色々と考えたりしておりました。
こういう時間ていうのはなかなか貴重だな、と思いました。日々色々と忙しく時間が過ぎる中で、神様の前にただ静々と座っている時間、祈りの時間といいますか、これは、信仰があるからこそのものであるな、と思いました。パワースポットです。
そして今日、当教会の月次祭ですが、ついに奉献神願が1000件を超えました。他でもなく皆様の真実のおかげですが、件数が増えたとかそういうことではなくて、それだけ皆さんが人の助かりをお願いしているという、それが嬉しく思います。
お道は今、まさに教祖百三十年祭、三年千日の真っ只中ということでありまして、いよいよ要となる「ようぼくの集い」が3月9日を皮切りに県内各地で開催されることになっています。
時報を見ましてもホームページを見ましてもこのようぼくの集い一色ですから、どうぞ皆さんにも行っていただきたいと思って、主だった会場だけ抜き出して大きな字で書いて貼っておきましたのでごらんください。
ただもうこれ、全力挙げて動員をかけているわけですが、集いをやりました人数がたくさん来ましたなんてことにはなんの意味もなくて、極端な 話ですがある会場に一人しか参加者がいなかったとしてもその人がよしこれからなにか人様のために働かしてもらおうと思ってもらうことができたらそれはもう 大成功と言っていいわけです。
真柱様も、このたびの神殿講和でその旨のことを仰ってましたので、特に我々運営側の人間はそのことを肝に銘じておかなければならないと思っております。
さて、ここから本題に入るわけですが、このたびは大雪だったり東京では知事選が行われたり、ロシアではオリンピックが開幕したり、また桐生市では堀マラソンが雪で中止になったりと色々と話の種はあるんですがどれもおもしろい話になりそうにありませんので、違う話をしようと思います。
私がここのところ色々と考えている中に、信仰ってなんだろう? ってなことがあります。信仰の基本といいますか、信仰してるよってこと、特にこのお道天理教を信仰してるよっていうのはどういうことなんだろう? というようなことです。なにをもって私はお道を信仰してるよ、って言えるのかという。
ひとつ質問なんですが、特に指名して答えてくださいとか言いませんので心の中で答えを探してもらえたらと思うんですが、
みなさん、おつとめ、してますか?
どうでしょう。またはひのきしん、してますか?
私もこれ突きつけられるとギクッとして言葉を濁してしまうなあ、と思ってしまう質問なんですけど、ましてや
おたすけ、してますか? なんて聞かれたらなんて答えましょう。
皆さんはどのようにお答えになりますか? それぞれに答えがあると思います。
あ、余談ですが私先日おたすけをひとつしてまいりました。十数年ぶりに献血をしてきました。
献血というのはまさに今命の危険にある人々のために使ってもらえる血液を提供することですから、これはもうおたすけであると思うんですが、それをしてまいりました。
それぞれに答えがあると思うのですが、では、こういう質問をされたら、どう答えますか。
みなさん、信仰、してますか?
どうですか? 私はそれ考えたときに、なんて答えるのかな、なんとも答えようがないな、と思ったんです。
なにをどうしてたら、私は天理教の信仰者ですと言えるのかな。おつとめやひのきしんやおたすけはさせてもらうけれども、または別席を運んでようぼくとなっているとか、それはそうなんでしょうが、信仰というのはそういう行動の基になる、精神的な部分だと思うんですね。
私は信者です、信仰してます、というその精神はどのような心にあるのだろうか。ということを考えたのです。
別にもったいつける答えでもないので言いますと、それは、許す、という心じゃないかな、と思ったんです。
許す。
教祖伝にこういうことが書いてあります。これは教祖が月日のやしろになる前のエピソードですが
「或る秋の収穫時に、作男を雇われたが、この男は、丈夫な身体にも拘らず、至って怠け者で、他の人がどのように忙しくして居ても、一向に働 こうとはせず、除け者になって居た。しかし、教祖は、見捨てることなく、いつも『ご苦労さん。』と、優しい言葉をかけて根気よく導かれた。初めのうちは、 それをよい事にして、尚も、怠け続けたが、やがて、これでは申訳ないと気付いて働き出し、後には人一倍の働き手となった。」
これ、私が一番好きな部分なんです。他にも百日参りとかほどこしのお話とか色々ありますが、私はこれを読むとぐっとくるんですね。
普通はこの男を見たら腹を立てます。なんで働かないのだ、サボらずに働け、と腹が立つんですが、果たしてこの人は本当に、ただ怠けていたの か、サボっているだけだったのか。もしかして、なんらかの理由でやりたくてもできなかったんじゃないのか、たとえば病気とかでですね、働きたくないわけ じゃないんだけれども、どうしていいかわからないとか、そういうことかもしれません。
本当のところはわかりませんが、もしかしたら、そうかもしれない。教祖はその人に「ご苦労さん」と声をかけ続けたわけです。
やりたくなくてやらないのかもしれないし、できなくてやらないのかもしれない。どちらかはわからないけれども、とにかくできないんですねそ の人は。そしたらまずそれを認めてあげるんです。それが、その人なんですよ。その人はそういうもんなんです。できなくてもやらなくてもそれはもうしょうが ないんです。
まずはこちらが認めてあげるんです。それはつまり、許すということだと思うんですね。
うちの子供の話なんですが、うちの子はいまだに箸箱を出せないんです。もうすぐ中学生になるんですが、六年間毎日毎日、帰ってきたら箸箱を流しに出しなさい、といい続けてきたんですが、結局できないんです。
そんな難しいことじゃないですよね。勉強でいい点とりなさいとか、なにか素晴らしい功績を残せとかそういうことを言っているんじゃなくて、学校から帰ってきたら箸箱を出すという、それができないんです。
それを見ると「まったくどうしてこんなことができないの。毎日毎日毎日毎日同じこと言わせて!」とこう、怒るわけですよ。確かにその気持ちはわかりますけどね。
でもそれは、しょうがないんです。理由はともかく、うちの子は箸箱を出すことができない子なんです。そしたらそれを認めてあげるんです。許してあげる。
だって、まったくどうしてこの子は! って言ったって、それは自分の子供なんですよ、親の顔が見たいとなったら鏡を見るしかない。
どうしてこんなことができないんだと怒るのであれば、どうやったらできるようになるかと考えてあげるのが、こちら側の役割であって、それは半分半分なんです。
言っただけではこの子はできない。だったらどうすればできるようになるだろうか、と。
そこで教祖は「ごくろうさん」といい続けたわけです。私はこれこそひながただと思うんです。
まずこちらが認めてあげる。現状を認めてあげて、そして許してあげる。
他の人から見たらあの作男はとんでもない奴ですよね。同じ給料、給料かどうかわかりませんけど報酬をもらって、しかも女性に比べたら倍ほども働ける身体で、働かずにサボっているわけです。
なんだあいつは。と。腹を立てます。そして、奥さんビシッと言うたってくれよ、と雇い主である教祖にも矛先が向くでしょうね。
しかし教祖は「ごくろうさん」しか言わない。男はもしかしたら、ものすごく嬉しかったんじゃないかと思うんです。ああ、これでもいいんだ、 できなくてもいいのか、と思ったかもしれない。そして、働き始めた。簡単なことからはじめたかもしれません。そしてゆくゆくは、人一倍の働き手になった。
そんなことを想像してみたりするんですね。
私はそうやって、現状を認めてあげる、許す心こそが信仰の基本であると思ってるんです。私はそう思っているんですけど、おそらくそんなに間違ってはいないと思います。
教祖が「ごくろうさん」と言い続けた、それはこの教祖伝にも書いてある、現実、事実です。
そしてですね、私が思うのはその先にもう一つ、その、相手を認めてあげる、許してあげるという心は、結果として、自分を許すことになると思っています。
それでいいんだという心は、自分にも向かってきます。自分の置かれた環境を見て、それでいいんだ。充分なんだ。結構なんだ、と思える。
隣の旦那さんは一流企業でたくさん稼いできていいなあ、と思ったりですね、あそこの旦那さんは稼ぎはそこそこだけど休みになると家族を大切にしていていいなあ、とかですね、そういうことを思わなくなるんです。
「それに比べてうちは」という考え方がなくなって、「ああ、うちはうちでいいじゃないか。これがウチなんだ」という考え方になるわけです。
さてこのような考え方はお道の我々にはどこかで聞いたことのある考え方のような気がしてまいります。
そうです。これ、この心が、たんのうの心です。
許すこと、認めてあげること。今が充分結構であるというこのことこそが、たんのうであります。誰が充分にしてくれているかと言えば神様に他ならないんですが、まずはとにかく充分けっこうにあるんだ、ということを知って、現状を認めるそれが、たんのうです。
そうした先には、神様にお礼がしたい、ひのきしんだ、神様にお教えいただいたんだ、おつとめだ、さらには神様が一番望まれていることはなん だろうか、そうかおたすけだ、という風になっていくわけなんですけれども、まずはその許すという心、それですね。基本となるのはそういう心からだと思いま す。
そうすると、そこで陽気ぐらしがひとつできるわけです。陽気ぐらしというのはなにも壮大な物語でも、理想郷の話でもなんでもなくて、私たちの心の使い方一つでどこででも実現するものです。
ですから、皆さんそれぞれの持ち場立場があって生活しているわけで、それ、持ち場や役割を喜んでお互いに通らせていただいて、陽気ぐらしの道中を今後も、共に歩ませていただきたく、本日の神殿講和を終えたいと思います。
お付き合いくださりありがとうございました。