だめのブログ

丸山道慶が書いています

176年12月 神殿講話

 ただいまは、当教会12月の月次祭のおつとめを結構に、陽気におつとめをいただきまして誠にありがとうございます。
 務めでありますので祭典講話をつとめさせていただきます。どうぞお楽な姿勢とお楽な心でお付き合いくださいますようお願い申し上げます。
 先日、12月の1日には会長就任奉告祭を皆様のおかげで盛大に執り行うことができました。皆様には続いて今日もおつとめくださいましてご苦労様です。ありがとうございます。
 その奉告祭について考えてまして一つ思ったのですが、あの日はほんとにたくさんの方にお越しいただいて、普段はなかなか来られない方ですとか、また上級の会長さんには全面的に協力いただいて、そちらの信者さんにもみなさん来て頂いて、本当にありがたかったです。
 で、その姿は、決して私の、新会長のために来てくれたわけではなくてですね、それはやはりこのたすけづとめ、誰かのためにおつとめをつとめよう、たすかってもらいたい、と思ってる方、または、前会長さんやまたその前会長さんそして奥さんたちにお世話になったから、と言って足を運んでくださった。
 それに対していつもいらしてくださる皆さんには、そういった普段慣れない人たちをお迎えする為に早くから準備をしてくださったわけです。
 つまり、あの奉告祭の日は、特に、誰かが誰かのためにわざわざ遠方からまたはそれぞれのご都合の中を教会に来て、おつとめをつとめてくださいました。
 そしてあの日、何度か大教会長様がお話くださった中に一貫してこれはもう、親を大切にしなさいというお話をしてくださいました。
 その姿を見て、私は、まさにこれは陽気ぐらしだな、と思ったんです。
 誰かが誰かのために働いている姿、そしてそれは、親のため、親を大切にしたいという心が現れている。みんな喜んで率先して動いてくださって、おかげさまで不足に思わせてしまうことがなく。
 これはもうまさに教祖の教えてくださった陽気ぐらしの姿でありまして、私は後になったそれを思ったわけなんですが、とてもありがたいな、と思ったので、まずそれをお話させていただきました。
 
 さて何をお話しようかな、ということで色々と考えてきたのですが、今年の話は今年のうちにということを考えまして、今年私が春に大教会の布教実修所に行っていたときのことをお話しようと思います。
 私はにおいがけ、特に戸別訪問がもう大の苦手でありまして、三ヶ月やってわかったことは、僕は戸別訪問はできないな、ということです。ですからにおいがけの話ではなく、その中で経験した二つのおさづけについてお話します。
 一つ目のおさづけの話ですが、大教会では毎朝朝づとめの後、参拝の信者さん同士でおさづけの取り次ぎ合いをしています。役員さんも信者さんも青年さんも、みんなおさづけを取り次ぐんですね。
 今の大教会長様になってから始められたんだと思いますが、今ではすっかり定着していいます。
 私も当然、おさづけを取り次がせてもらうんですけど、ある日フッと気がついたんですが、役員の先生方が頭下げて座ってるんですね。
 あれ? と思いまして。教服着て結界の中で朝づとめつとめた先生方が、おさづけの取り次ぎになると拝をして添い願いしてるんですよ。これはおかしいぞ。と
 役員なんだから率先して信者さんにおさづけの取次ぎに行くべきなんじゃないの? と思いました。
 ただまあ、私も大教会で青年してたこともありますのでその辺の事情はわからないこともなく、正論振りかざすつもりもないんです。ですが、これはやっぱり勿体無いですよ。特に年祭だ三年千日だと言っている時期ですから、これはもう勿体無い。
 で、私は心に決めまして。毎朝、役員先生のところにおさづけの取次ぎに行こうと。自分より上の立場の人間にお願いに行こうと思いまして、次の日から、朝づとめが終わっておさづけの取次ぎになると、ススっと前の方に行きまして、顔なじみの先生に「おさづけ取り次がせていただきます」と行きました。
 先生方も最初は、え? おれ? みたいにきょとんとするんですが、ちゃんと取り次がせてくださいまして、腰が痛いとか心臓が悪いとか、色々とお願いがありました。いや、いいや、と断られたのは二回しかありませんでした。

 ある日、他に行く人がいなくてそれまで避けていた先生のところにおさづけの取次ぎに行った時のことです。
 その先生はもう、大教会きっての布教の鬼のような先生で、布教実修所の初代所長もしていて、今は教会長になっている役員先生で、私はまともに目を見て話もできないような先生なんですが、その先生のところしかなくて思い切って行きました。「おさづけ取り次がせていただきます」と。
 するとやはり「え?私?」と驚かれたあと、すぐにじゃあ、ここを、と仰って、おさづけを取り次がせてもらいました。もうそんな布教の鬼みたいな人におさづけ取り次ぐのは緊張しますね。なんかこう、試されているというか見極められているというか、どちらが神様の間に入っているのかわからなくなります。つまり、やたら緊張しました。おさづけ終わりまして「ありがとうございました」と言いましたら、「丸山君じゃあ、次は僕がおさづけ取り次いがせてもらうよ」とこう仰ったんですね。次はというのはこの次の機会にはということです。
 そういう言い方をする先生は初めてですね。私は、はい是非お願いします。と言って自席に戻りました。
 しばらく経ってある日、再び消去法でその先生のところに行った時に先生やっぱり覚えてまして「じゃあ今度は僕が」と仰いまして、私はどこも特に悪くないので焦ったんですが、ふと足が痛いことを思い出しまして、恐れ多いんですが足の裏を、とお願いしました。
 私、大教会の青年してるときですからもう20年近く、足の裏の魚の目に悩まされてまして、何年か前から皮膚科に通ってるんですが、なかなかよくならない。皮膚科には月に何度か通いまして、そのたびに液体窒素で凍らせる治療をするんですが、場所が場所だけに時間がかかるらしいといって、もう数年通っていました。
 その間に今度はイボがいくつかできてきまして、足の裏に魚の目とイボといくつもありまして、歩くと痛いんですね。足を付く場所を選んだり、足の裏をかばって歩くと脚に変な重心がかかって足全体が痛くなるそういう悩みを抱えてまして、それをお願いしました。
 足の裏という場所ですからなかなか人にお願いするのも申し訳ない思いがあったんですが、まあ朝ですし、色々な方のお助けをされてきた先生ですからと甘えましてお願いしました。
 そうしましたらその先生のおさづけの取り次ぎがですね、もうこう、両手で私のこの足、ぎゅうっとつかみまして、撫でるというより握るように、なむたすけたまへてんりおうのみこと、とお願いしてくださる。ありがたかったです。
 私は三ヶ月大教会にいるわけですから、もちろん皮膚科への通院もその間はしていなくて、終わった後もなんだかんだと行けてないんですが、帰ってきてしばらくしまして、これ、大げさでもなんでもなく、イボがなくなっちゃったんです。
 何年も皮膚科に通って治療してなかなか良くならなかった。それがですね、たった一度のおさづけ取り次ぎで、なのかどうかはわかりませんが、とにかく結果として治った。しかも三ヶ月間は毎日自転車ガッツリこいで、歩いて歩いての日々でしたから、それで治るというのは不思議なんです。

 これですね、おそらく確かにおさづけ取次ぎによっての神様の不思議なご守護なんだと思うですが、じゃあその先生が奇跡的な力を持ってるかとか、そういう超常的な話ではないと思うんです。そういう話にすると分かりやすくて伝わりやすいからそういう風にしちゃいたいのは私もそうなんですが、私はもうちょっと考えたいんです。
 これは、私が、まず、おさづけ取次ぎに行ってるんですね。一つは毎日、好きか嫌いかはともかくにおいがけの真似事に歩いている。もう一つは行きにくいところ、誰も行かなかったところに行ったんですよね。役員さんのところに出かけて行った。そしたらおさづけ取り次いでもらえた。ここに、人助けたらわが身助かるという、神様の言葉を思い出さずにいられないんです。
 そういうことのご褒美で治してくれた、ということかといえばまた少しそれも違うかなと思うんですが、神様の御用をするのに必要な分のご守護を、その先生を通してくださったという、そういう感じなんだと思います。
 それが、さづけを路銀と仰ったことなんじゃないかと思っています。

 一つ目のおさづけの話はそういったことで、続いて二つ目のおさづけの話をします。
 二つ目は大教会長様のおさづけです。
 そのように朝づとめの後おさづけの取次ぎに役員さんたちに行っていたんですが、大教会長様がいらっしゃるときは大教会長様のところに行ってました。普段お忙しくてなかなか大教会にいらっしゃらないですから、一ヶ月ほど経ったころだったと思うんですが、チャンスに恵まれまして大教会長様のところにおさづけに行きました。
 大教会長様も頭下げて願ってるだけだったのでもう、勿体無いと思ったんです。
 最初はやっぱり「え? おれ?」となるんですが、怒られることなく、おさづけを取り次がせてもらいました。
 その後も何度かチャンスがあって行ってたんですが、さすがに大教会長様にってなると緊張もあって、毎回こう、行っていいのかな、ダメかな? みたいに思っちゃうんです。ある時そうして様子を伺っていると大教会長様がこっちに小さく手招きしまして、来いと言うんです。行ってみると、おさづけ取り次いでくれと仰る。
 非常に嬉しかったです。
 そして、ある朝、大教会長様の元へおさづけに伺うとですね、「今日はオレがやるわ」と仰るんですね。
 私はビックリしまして、恐れおおいとも思いながら、せっかくのお言葉ですので、ちょうどその頃悩まされていたこの、足の甲の、正座タコみたいな、そういうのが痛いのでお願いしますと言いました。
 考えてみたらこれも贅沢な話でですね、おさづけですから誰が取り次いでも同じとはいえ、大教会長様にとりついでもらいたい願ってもらいたいと思う人も多いのも事実だと思うんですね。しかも重症の方というか、深刻な悩みの方であればあるほどそうかと思うんですが、それが私、元気な私がですね、しかも正座タコって、と自分で突っ込みを入れていました。
 言ってみれば正座するのも仕事のうちなわけなんですけど、それで正座タコが痛いんですお願いしますっていうのは、その時私にとっては上司に当たりますから、大教会長様は怒られるかな、と思ったりしたんですが、私が「じゃあすみません正座タコが痛くてですね」と言いましたら、大教会長様は「そうか、それはしんどいなあ」と仰って、私より頭をずうっと低く下げて、足首を掴むように、強く強く、なむたすけたまへ、と何度もさすってくださったいました。本当にありがたい経験をさせてもらいました。

 私は、この姿こそ、たすけの姿じゃないかな。と思うんです。
 私は重病の方や深刻な悩みの方に比べたら小さな悩みですよ。正座タコですから。しかしその時の私にとっては深刻でもあったんです。それに対して「しんどいなあ」と言ってくださる。そして真剣に祈ってくださる。
 これは、ほんとうに嬉しかったです。これこそ、諭達に仰る「寄り添う」姿だと思いました。
 やっぱり悩んでいる人、病んでいる人というのはしんどいんですよ。
 それは、あの人にくらべてとか、誰かはこうだったとかそういうことではなくて、しんどいんです。
 その人がしんどいと思ったらしんどいんですよ。その声を聴いてあげることがなにより大事なことなんだと、私は思います。そして、わからないかもしれないけど、「しんどいよね、大変だよね。」とまずは声をかけてあげるそして、願ってあげる。
 これが、おたすけの姿なんだなあ、ということを私は二つのおさづけの場面に思わしてもらいました。

 まとまらない話になりましたが、以上で今月の神殿講話とさせていただきます。