だめのブログ

丸山道慶が書いています

177年5月 神殿講話 〈消極的なおたすけについてとひのきしんとはなにか〉

 只今は、5月の月次祭のおつとめを、結構につとめさせていただきましてありがとうございました。神殿講話をつとめさせていただきます。
 今日は土曜日ということで子どもたちもたくさんおつとめをつとめてくれまして、非常に良いおつとめができたと思っております。
 うちみたいな小さな教会ですとなかなか形の整ったおつとめというのはできないのですが、毎月祭文で「今できる精一杯のおつとめを」と申し上げておりますが、正に今日はそういった素晴らしいおつとめになったと思います。
 おつとめできるようになったらやりますと言ってますといつまで経ってもできませんので、できないならできないなりに一生懸命やらせてもらう姿が、神様お喜びくださってお受け取りくださるのだと思います。
 
 今月は仕切り丹精の月です。ご案内が遅くなってしまい申し訳ありませんが、大教会長様から、仕切っておぢばへ運ばせてもらおうとお声を頂いておりますので、ご協力をお願い申し上げます。
 また、6月1日は上級教会の合同総会の日です。今年もおたすけのおつとめをつとめると会長様からお声をいただきましたので、当教会からも奉献神願をもとに名簿を提出しますので、何かありましたら申し付けてください。
 ようぼくの集いが、支部では6月29日に開催されますのでぜひご参加ください。
 
 その中にも当教会も今月は1152件の奉献神願をお供えいたしました。一人が一人を願うその気持が、一ヶ月1000件を超える願いになってきますので、どうぞ日々願うということを意識していただきたいと思います。

 今月は二点お話を申し上げます。一点はおたすけについてお話をします。後半もう一点ひのきしんてなんだろうというお話をします。

 

【消極的なおたすけ】
 先月25日におぢばでおたすけ推進大会というのがありまして、第二食堂に1600人くらい集まりまして2時間ほど話を聞いてまいりました。
 やはり全教挙げて、ようぼくの集いをひとつのステップにして、おたすけのできるようぼくになってもらいたいという思いがあるようです。
 じゃあそのおたすけってなんだろうなってことを考えたいんです。
 今日も祭文に思い切って、神様の前で言上しました。おたすけの旬ということで、積極的なおたすけが求められるわけなんですが、それと同時に、おつとめと同じで、できるようになるのを待ってたらいつまで経ってもできませんので、消極的なおたすけというのもあるかなと考えました。
 先日5月の4日、献血がありまして、少しでもと思って声掛けの手伝い、ひのきしんをさせてもらいました。私も献血できる期間でしたから献血してきました。これもおたすけですね。
 献血というのは血液を医療用に使ってもらうわけです。どこかの誰かに輸血をしてもらうわけですからまさに命の危険がある方に使ってもらえる。これもひとつおたすけだと思います。
 献血のできない方も献血のお声掛けをさせてもらう。年齢的とか、事情があってできない方も、献血が出来る人に声をかけさせてもらう。これもおたすけですね。人のためになる行いですね。
 またはお道の上ではおさづけを取り次ぐですとか、お願いつとめをつとめるとか、にをいがけ、一言話をさせてもらうとか、自分から進んでやらせてもらう、これは積極的におたすけができている、素晴らしいようぼくの方だと思います。
 こういうことをやってくださいと言われるわけですね。ですが、なかなかこれは、やろうと思ってできるもんではないです。特に僕は苦手なんです。なかなか自分から声をかけられない。そんな時にいろいろ考えていたんです。

 私の話ですが、この春上の子が中学校、下の子が小学校に入学しました。割りと昼間時間がとれるものですから、小学校のPTAの役員を引き受けさせてもらいました。それから地域の子供会の役員をやってくれませんかと言われましてできる中で引き受けさせてもらいました。
 私は個人的に、そういう会をやるとかいうのは慣れてますので苦じゃありませんので、できることだからやらせてもらおうと思って引き受けて今やってます。
 中学校の入学式に行きますと中学校は中学校でPTAの役員を決めるんですね。そこでも引き受けるとどれも中途半端になりますので、黙っていました。そうしましたら他のお母さんが手を上げてくれて、すんなり4人の役員さんが決まりました。
 その時に僕は「ああ助かったな」と思いました。もし誰も出なかったら、引き受けようかなと思ってたんですが、他の人が手を上げてくれた時に助かったと思った。今年は僕は中学校はやらなくていいんだと思いました。助かったんです。僕。
 僕は小学校でPTA役を引き受けました。子供会で引き受けました。ただできるし、苦じゃないからやらせてもらおうかと思っただけなんですが、忙しくてできない人もいるし、役を背負うこと自体が負担になってしまってやりたくない人も多いんですね。
 僕が何か一つ引き受けたら、どこかの誰かがその分助かってるんだなと思ったんです。
 これもひとつ、神様の上から言うとおたすけなんだな、と思いました。僕にできることを一つやらせてもらったら、例えばそれをやらないけない人が、やらなくて済むのかなと。
 その分楽をするというわけじゃないですが、どこかの誰かが一人ちょっと時間が空く、その分その人は家のことができるとか、人のことができるとか、時間がとれるのかなと思ったんです。
 そうすると、そういうこともひとつのおたすけなんだよ。積極的に神様のこと、人助けだよと思ってやらなくても、できることを何かひとつやらせてもらうという、これもおたすけなんですね。

 そういうことを考えていくと、この社会の中でたとえば会社員の人は仕事をします。家にいらっしゃる方は家のことをたくさんします。学生さんは学校に行って勉強します。これは世の中のためになることですね。
 家族のことをするということは家族が助かるわけです。家族が助かるということは、家から仕事に行くことができるわけです。仕事に行けば会社の人やお客さん、仕事というのは基本的に社会貢献のためにやるわけですから、自分のためだけにやるわけではありません。
 まずは相手のため誰かのために仕事をする。そうするとお給料がもらえるとか感謝されるとか、そういう助け合いの世の中を人間はつくってきたんです。
 そういう中で自分のすべきこと、できることをきちんとやらせてもらうということは、間違いなくおたすけになっているということです。その姿は神様がお喜びになる姿なんです。何もやらないというのは残念かもしれない。
 だからできることを一つやらせてもらう。特別なことじゃない、日常の中に自分のできることやらなければならないことをやること。ここから人助けというのははじまっているんです。どこかで誰かが必ず私のために助かっているんです。

 

【健康でいることもおたすけだ】
 そこから言うと、健康であること。これも、おたすけですね。病院にかかると保険を使います。保険というのは税金、皆さんから頂いた税金でまかなわれいます。7割から8割。そうすると健康でいて、社会にとってあまり大きな負担をかけないようにする。
 必要もないのに病院にかからないようにする。普段から健康に気を使って過ごすということが、社会のためになるんです。
 今、医療不足と言われています。お医者さんが足りない。特に産科や小児科の医療者が足りないと言われています。特に救急病院が足りないと言われていて、これにはいろいろな要因がありますが、足りないからなるべくかからないようにする。
 そうすることによって本当に助からなければいけない人がたすかるようになるんです。順番待ちが減れば、お医者さんが一人にかける時間が長くなる。10人しかお医者さんがいないところに1000人の患者さんがいるのと、500人の患者さんがいるのでは、500人の方がお医者さんは楽に診られるようになるわけです。
 例えばですが、必要以上にお医者さんに行くようなことを控えるというようなこともこれも、どこかで誰かが助かっているんです。
 こういったこともみんなおたすけなんだというようなことを考えていくと、いずれ「神様はね…」というようなお話ができるようになったり、病んでいる人に会った時に「私は天理教だから、おさづけというお願いをさせてもらいますよ」というような声掛けができるようになっていくんじゃないかな、と思います。

 

【助けることは助かること】
 この姿を神様が望まれているんじゃないのかな、ということを考えました。おたすけというのは、もちろん積極的なことを心かけていかなければなりませんが、それと同時に、すでに私は誰かのためになっているんだということを考えていく。
 そうしたところに逆に、私は皆さんに助けられて暮らしているんだな、ということがまたわかってきます。そうすると、周りのいろいろなことが、ありがたく感謝の気持ちが湧いてくることと思います。
 消極的なおたすけというといい聞こえではありませんが、ガツガツいかなくとも十分日常の中でおたすけしているんですよ、ということを申し上げたくお話しました。


【ひのきしんてなんだろう】 
 一つ目がその、おたすけについてお話をしましたので、ひのきしんてなんだろうというお話をしたいと思います。
 2、3日前に大教会から手紙が来まして、大教会の前会長様の講話が文章にして送られてきました。それを読みながらぜひお話をしたいと思いました。
 ひのきしんとはなんでしょう。

 僕もこれ、高校生の時からひのきしんとはなんだろうな、ということを学生会の行事とかでお互いに話し合ってきました。
 私の考えでありますが、ひのきしんとは、おぢばがえりなんです。結論から言うと。
 ひのきしんてなんですか? と聞かれたらおぢばがえりだよ、と答えるようにしています。
 ひのきしんとは、一般的によく、神様に生かされているから、その感謝の気持ちを行動に現したこと、その全てがひのきしんだと言われます。ですから具体的にはなんでもいいわけです。
 お掃除をさせてもらっても、おさづけの取次おたすけをさせてもらっても、履物をそろえるとか、また先程も言ったような日日の皆さんのお働きも、すべてこれは、感謝の心でひのきしんになるわけなんだけれども、あえて僕は、それは、おぢばがえりだよ、と言います。

 

【ひのきしんとはおぢばがえりだ】
 ひのきしんという言葉は我々お道の人間にとっては非常に馴染みがあって、なんとなくわかりやすいんですが、お道を全然知らない人に、今度全教一斉ひのきしんデーがありますからとか、教会のひのきしんに行きませんかと誘っても、ひのきしんてなんですかって言われて困ってしまいます。
 どこから話を始めればいいのやら。ひのきしんていうのは、奉仕活動と言えばいいんじゃないかなと思ってますが、教会奉仕活動。人のため、誰かのためになることをなにかやらせてもらうことだよ。ひのきしんていうのはそういう意味があるよと思ってます。
 それはそれでまったく正しい部分で、もう一点、少し見方を変えていくと、人のため誰かのためになることだよ、ということと同時に、親。親に喜んでもらうことです。
 親というのは自分の親、両親、また代々のご先祖様も親ですが、行き着くところ、親神様。人間の世界においては教祖ですが、唯一の我々の親であります。
 その親神様教祖に感謝をしてお礼を言うわけですから、神様の思し召しどおり、神様がお喜びいただくことをする。これがひのきしんの行いなんだ。

 じゃあ神様が一番喜んでくれることは何かな、ということを考えます。そしたら、人間の親が喜んでくれることは何かな、と考えたんです。
 たとえば、子供が産まれ成長し、就職をして東京に出た息子さん娘さんが、初任給が出たと言って、「お母さんこれ使ってください」と言ってお小遣いをくれたら、とても嬉しいですね。涙がでるほど嬉しいですね。
 または給料が出たからボーナスが出たからお父さんお母さんに似合うと思ってプレゼントを送ってくれたら。休みの日にデパートに行って一生懸命選んでくれたら嬉しいですよね。
 私はそんな経験はまだありませんがおそらく嬉しいと思います。それと同時に。
 ボーナスをもらった給料をもらった。それを交通費にして、今度の連休にお父さんお母さん里帰りをするよって言って帰ってきたらどうかな、と思いました。
 親として考えたら最後の、顔を見せてくれるのが一番嬉しいんじゃないかな、と思ったんです。
 もちろん頑張って一生懸命仕事して給料もらったバイト代もらったから、その一部をお小遣いにくれるよ、また時間を使って考えて選んでくれたプレゼント、すごく嬉しいです。
 だけれども、一番親が喜ぶというのは、お小遣いなくとも、プレゼントなくとも、そのお金を交通費にして時間を使って、元気な顔を見せてくれたら、一番嬉しいのではないかと思います。
 これこれこうだったよ、というその間の話を聞かせてくれたら一番嬉しいんじゃないかな、そう思います。

 人間の親が嬉しいんだから、神様も嬉しいんです。
 それが、なにかという、それはもう、おぢばがえりなんです。
 おぢばに行っておつとめをつとめて、教祖に元気な顔を見てもらうこれが一番喜んでもらえる。


おぢばがえりがひのきしんの出発点】 
 ですがそれぞれの持ち場立場の上で色々と御用がありますので、特に群馬県は遠方ですのでなかなかおぢばがえりができない。
 そしたら、おぢばがえりができない分、おぢばの出張り場所である教会に運ばせてもらいます。
 おぢばでおつとめをしたい、でもできない。だから我々の土地ところであるここ教会で、おぢばに向かっておつとめをするんです。
 この神様、教会というのはおぢばに向かって建っていますから、おぢばに向かっておつとめをするんです。
 
 それでもなかなか忙しく教会にも足を運べない。
 そしたら、その時には、その間も結構に働かせてもらってるわけですから、忙しいというのは働いているわけですから、それによって得たもの、それを神様にお供えします。
 時間と労力を使ってできたものを、こんなに良い物ができましたと言って、神様にお供えさせてもらう。
 また、これだけお給料をいただきました。その一部を、おぢばがえりの費用と思って、おぢばに、神様にお供えをさえてもらう。
 これが、ひのきしんなんです。

 おぢばがえりなんです。考える出発点が。
 たとえば誰かを助けたい助かってもらいたい、なにかさせてもらおう。よし教会に参拝させてもらおうおつとめさせてもらおう、なにか日日やらせてもらおう、大変結構なことです。
 ただ、第一におぢばがえりを思い浮かべてもらいたいんです。
 おぢばがえりができるかな。今月来月。できるかな。
 できないな。だったら教会にお参拝させてもらおう。毎日参拝に行けるかな。
 できないな。そしたらその中で、自分が得たものの一部を神様にお供えさせてもらおう、願いを届けさせてもらおう。
 お礼の気持ちをそこに込めさせてもらおう。

 ということが、これが、ひのきしんというものの考え方です。
 おぢばがえりが出発点。第二に教会に足を運ばせてもらう。第三にお供えをさせてもらう。
 僕はそうだと思うんです。第一におぢばがえりなんです。

 特に教祖130年祭、年祭活動再来年の一月までですので、これまでにはなんとか一人も多くの皆さんとおぢばがえりをしたいと思っておりますので、いつおぢばがえりができるかな、ということを楽しみに皆さんにもお通りいただきたいと思います。

 

【そしてお守りを】
 あ。で、その、おぢばがえり、そうは言うけどできないですよ。我々は教会の者のとしておぢばに行くことが勤めのようなものですので行きますが、じゃあ来月一緒に行きましょうと言ってもできるものではありません。
 行事としては夏のこどもおぢばがえりがあります。子どもたちを連れておぢばがえりをさせてもらいますが、それ以外に行くというのはなかなか難しいです。
 じゃあおぢばを常に身近に、心に、という、これなんですが、これが、お守りです。
 皆さんお守り持ってますか? そのお守りの話が、大教会前会長様の講話の中に書かれていたんです。
 僕ここ何年か、よくお守りお守りという話を聞いていたんです。大教会長様からも、大教会の前会長様からも、何度も何度もお守りって聞いていたんですが、なかなか皆さんにお話できなかった。自分の身に付いていないんですね。
 申し訳ないなと思って、お守りの話をしなければいけないと。お守りってなにかと考えますと、お守りというのはおぢばがえりなんですね。
 おぢばに帰った証拠の守りなんです。

 お守りもなかなか、特に夏場は、汗をかいたりしましてお守り袋などで身につけにくいです。お風呂場に置いてきたりしちゃいます。
 例えば私は、お財布というのは常に持ち歩いてますので、その中にお守りを入れて持ち歩いています。お守り入れの中に入れておくとどこかにいってしまいますので、サランラップにくるんで、お財布の中に入れて持ち歩いてます。
 おぢばに行くと色々な形のお守り入れがあります。お守りは持ってるけど家のタンスに入っているという方がいらっしゃったらぜひ明日から、お守りを身につけていただきたい。
 お守りというのは、おぢばに帰った証拠として、教祖が実際に身に着けた赤衣の一部をいただくものです。
 それを肌身離さず日常の中で持ち歩くというのは、これは、信仰者としての姿の一つの現れでありまして、また、ひのきしんの態度であるということを申し上げまして、今月の神殿講話といたします。
 ありがとうございました。