だめのブログ

丸山道慶が書いています

177年1月 神殿講話 《信じる力》

 ただいまは当教会の1月の月次祭のおつとめを、おたすけのためのおつとめを陽気にけっこうにおつとめくださいまして誠にありがとうございます。神殿講話をつとめさせていただきます。お楽な姿勢、お楽な心でお付き合いください。

  • 《報告、連絡》


 おぢばがえりのご報告をします。12月26日、ご本部月次祭おぢばがえりをしてまいりました。その日は、おぢばにお正月にお供えするお鏡餅のお餅つきの日で、ひのきしんの一員として行って参りました。
 今回で二回目となりましたが、相変わらずたくさんのもち米を、大勢の信者さん方と一緒につきます。ご覧になったことがあるかと思いますが、おぢばにお供えされるお鏡というのは非常に大きいものでして、聞いたところによると一つ、一斗の餅だそうです。十升です。十升の餅を一度につける臼はありませんで、5升のお餅をついて、大きなボウルの中でそれを二つあわせて、そして一斗の餅にしていました。
 その一斗餅が50枚弱ありましたから、五石程度の米を、大教会としてお供えさせてもらいました。夜の7時頃からはじめて10時すぎまでかかりましたが、大教会長様も最初から最後まで参加してくださって、和やかで楽しいひのきしんをやらせてもらいました。
 行事のご連絡ですが、3月31日大教会、4月4日に教区で、それぞれ少年会の総会があります。うちの教会からも例年たくさんの子供達がおつとめまなびをしてくれていますので、今年も例年通り参加させてもらいます。よろしくお願いいたします。また4月には上級教会のバス団参があります。普段御用が多くてなかなか上級の会長様とおぢばがえりをする機会はありませんから、団参の声というのは、会長様が「ぜひ私と一緒におぢばがえりをしましょう」と個別に声をかけてくれていると思って、ご都合の付く方は是非おぢばに帰らせてもらいたいと思います。
 そしてこれも先月から申しておりますが、3月からはようぼくの集いというものが始まります。大教会としても例年の一斉巡教をとりやめてこれに注力してくれということですので、今のうちからご都合を調整してくださいますようにお願いします。

  • 《人間には本能はない?》


 さて、今日は人間の本能ということでお話をしようかなと思っています。というと小難しい話になりそうですが、そんな難しいことは私にわかりませんので、簡単な話です。人間の本能ってどんなことでしょうか。
 私が学生の頃、ある先生に聞いたことの中で、今でもなるほどと思っていることがありまして、それは「人間には本能はないよ」という話です。なんとなく、人間の本能というと食べることですとか、寝ることですとか、性的なこともそうですね、そういうことを本能と思いますが、その説では、本能はないと言う。
 本能とは持って生まれた能力のことだと思います。産まれながらに持っている力です。他の動物と比べるとわかりやすいのですが、まず、人間は他の大型動物に比べて妊娠期間が短いそうです。10ヶ月という妊娠期間は、大型動物の中では短いらしい。また、他の動物は産まれてすぐに立ち上がります。立って歩いてお母さんのおっぱいを探して飲みに行きます。先日テレビでキリンの出産を見ましたが、一人で出産をして、赤ちゃんはすぐに立ち上がって母親のところへ行きました。特に草食動物の場合は、出産後は母子共に肉食動物に狙われやすいですから、産まれたらすぐに立ち上がり、歩き、走れるようにならなくては、死んでしまうだけです。
 対して、人間はどうでしょう。産まれてすぐ立ち上がり、歩くことができますでしょうか。母親の乳房を自分で探しに行くことができるでしょうか。これはおそらくできません。
 そういうことで、人間には本能はない、または乏しい、という説があるんだそうです。これは「生理的早産」ということのようです。その教授の教えてくれたところによると、人間の本能としては、泣くこと、そして何かものを掴むこと、などはあるそうです。
 じゃあ、本能じゃなければなんなんだ、ということになるとそれは、教育や学習によって、ひとつひとつ身に付けていく能力だ、ということだそうです。見て覚えて、教えられて、人間らしく成長していくのだそうです。

  • 《信じる心》


 私はそれを聞いてなるほど、と思います。それが学説としてどれくらいの位置にあるのかどうかはわかりませんが、それは非常に共感できる内容なんです。
 そして同時に、もう一つ、人間には本能があるんじゃないか、ということを最近考えるようになりました。
 それは、信じる心、信じる力が、人間には本能的に備わっているのじゃないかな、ということです。
 昨年から、おぢばの講習やひのきしんなどに色々出かけて、色々な人に出会う中で、里親の方にたくさん出会いました。色々な里親の方のお話を、何度も聞かせていただくことができました。余談ですが、全国の里親の、一割程度は天理教の教会長さんがしていらっしゃるようで、日本の里親制度は天理教なくして存続しえないと、国からも頼りにされ感謝されているそうです。
 私は恥ずかしながらそれまで里親ということに何の興味も知識もなかったのですが、きっかけは、私の同級生が、大きな教会の会長をやっているのですが、そいつが何人か子供を預かっているという話を聞いたことでした。学生時代どうしようもないヤンチャだった男が、もう十数年会長をやって、子供を立派に育てて、里親までしているそれを聞いて、ぐうの音も出なかったのですが、そこから少し里親に興味を持ち始めました。
 すると、次から次へと、出会う人がみんな里親経験あり、でした。
 教会長資格検定で仲良くなったご夫婦、任命講習で同じ班の男の人、そして世話取りの先生、また講話の中で一番印象に残っているのも、里親を長く続けてらっしゃる先生のお話でした。たかだか一年少しの間に、次から次へと私の前を里親が通り過ぎていくわけです。
 そういう話の中で、中には酷い親もいる、っていう話を何度か聞いたんです。あくまで伝聞ですが、たとえば、子供を育てていくことが困難で、施設に預けているわけですが、その子供に対して、誕生日には迎えに来るから一緒に暮らそうね、と言って約束をする。子供は誕生日を心待ちにして生活するわけです。しかしいざ誕生日が来ると親が来て、ごめんもう少し待って。クリスマスには一緒に暮らせるようになるから。と言って、施設に子供を残して帰る。子供はクリスマスを楽しみに、準備をして待つ。しかし、また親はまだ仕事が落ち着かないから、春になったら、と言って帰る。子供は春を楽しみに、親を待ち続けるんだそうです。そんなことが何年も繰り返されることがあったりするそうです。
 また、18歳になると養護施設にはいられないそうで、頑張って高校を卒業して就職して、貧乏ながらも一人暮らしを始めると、それまで疎遠だった親が尋ねてくるそうです。そして、子供が働いて稼いだ少ない給料から、お金を借りていくんだそうです。仕事がうまくいけば一緒に暮らせるようになるから、そのために少しの間だけ貸して、と言って、借りていくそうです。そうして毎月、子供の給料日が来ると、もうすぐ一緒に暮らせるから、と言って、お金を借りていく。子供は、親のためにお金を使わずにとっておくんだそうです。
 当然、施設の先生方は、そういうことを承知していて、子供に対して、お金を渡しちゃダメだよ、と、説得するんだそうですが、子供はそれは聞き入れないそうです。
 一つ二つの例ですが、これは、実際に里親をしている方から、私が聞かせてもらった話の一つです。極端な例なのかもしれませんが、話してくれた先生は、人の皮をかぶった鬼だよね、と、涙を浮かべて話していました。私も、酷い話だと思います。
 ただ、私が今日言いたいのは、酷い話のことではなくて、この話が本当だとしたらですね、「それでも、子供は親を信じるんですよね。」ということ、なんです。色々な人がいてそれぞれに事情がありますから、一方的にそういう親、大人のことを断罪するつもりはありません。ただ、子供は、どんな親であっても、信じる、ということです。
 こんなの、親による裏切りですよね。ウソですよね。何度も繰り返される。それでも、しかし、子供は、親を信じるんですよ。誰にも言われてないのに。さすがに、こういう親のことをちゃんと聞かないとダメですよ、とは教えないと思います。しかし、子供はちゃんと信じて待つんです。楽しみに、荷物を用意して。自分のほしい物も買わずに、お母さんが喜んでくれるから褒めてくれるからと言って、貯金して待っているんだそうです。

  • 《神様を信じる》

 
 極端な例を出しましたが、そうでなくとも、子供というのは信じますよね。ちょっと言うとすぐ「ほんとう?」となります。言い換えれば騙されやすいですよね。すぐごまかされます。
 違うんです。それは、だまされやすいんではなくて、信じているんです。信じる力が強いから、それを利用して大人が騙すんです。そうして何度も騙されていく中に、学習して人を疑うことを覚えて、あんまり人のことを信じなくなっていくんだと思います。
 つまり、信じる力というのは、人間の本能としてもって産まれたものなんじゃないか、と思うのです。人は、生まれながらにして、信じるチカラを持っているんです。
 その信じるチカラは誰に向けられているか。親ですね。お父さんお母さん。
 そしてそれはつまり、私たち人間をおつくり下さって、いまなお一瞬の隙もなくお守りくださっている、親神様、教祖、を信じる、その能力でもあります。神様と人間という関係にもっとも近いのが、親子関係です。無限の愛、無償の愛を与える親、無条件にそれを信じて受け取る子供です。
 親が子供に「こんだけあんたのために働いてるんだから時給いくらよこせ」とかですね、「あんたは憎たらしいから親をやめる」なんていうことはないわけで、神様は人間の親が子供を愛する以上に、子供かわいいただそれだけで無条件にご守護くださっているわけです。
 その神様を信じるチカラというのは、我々の中に確かにあるわけです。それは子供を見ていればわかるわけです。信じる心は、みなさんの中に、あります。
 そしてその神様が「誠の心になってくれ」と仰る。誠の心というのは、人のためになにかさせてもらう心だと思います。人をたすける心。そしてさらに「人たすけたら我が身たすかる」と仰っているわけですから、私たちは、その神様の言葉を信じて、信じ切って通らせてもらわないといけないな、と思います。
 人たすけたら我が身たすかる、という神様のお言葉を信じて、お互いに通らせていただきましょう。以上でございます。ご清聴ありがとうございました。