だめのブログ

丸山道慶が書いています

小学校卒業式、卒業生保護者代表謝辞

 もうかなり忘れ去られていることですので、そろそろ良いかと思い季節外れにアップしておきます。

 一部でご好評をいただいたので、どなたかのご参考になれば幸いです。

 今年の三月に、息子の小学校で保護者代表謝辞を務めたときの全文です。

 

***** 以下 *****

 

謝辞
 はじめに、南小学校の校長先生はじめ先生方、本日六十二名の児童に卒業証書を授与されましたことを、厚くお礼申し上げます。来賓の皆様、地域の皆様にも、保護者を代表いたしまして、お礼申し上げます。誠に、ありがとうございました。
 この子たちが三年生の時、東日本大震災がありました。連日、被災地の様子が伝えらる中で、いち早く学校での授業が再開されたニュースを何度も見ました。
 私は、食べるものもない、寝るところもない、トイレにも不自由している人がたくさんいるのに、学校なんて後回しでいいじゃないかと思って見ていました。でもそれは間違いでした。
 今日卒業生が受け取った卒業証書には「小学校の全課程を修了したことを証する」と書かれていると思います。あの時、被災地の学校が再開するのが遅れれば遅れただけ、被災地の子供達は、南小の子たちと同じ勉強をできないまま、次の学年に進まなければならなくなってしまい、それは、とても不幸なことです。
 だからあの時、なによりもまず、学校の授業を再開するために多くの人々が努力したんじゃないかな、と私は思っています。
学校の勉強というのは、それくらい大事なものなんだと、私はあの時学びました。
 勉強をすれば必ず夢がかなうかどうかはわかりません。しかし、夢をかなえたいと思ったときに、勉強したことは必ず役に立ちます。その勉強を、六年間、子供達はよく頑張りました。家族みんなで私達保護者は、六年間毎日、子供を無事に学校に送り出しました。PTAや子供会の活動を通して、子供達を見守ってくださった地域のみなさんがたくさんいらっしゃいました。そして、学校では素晴らしい先生方が、子供たちに勉強を教えてくださいました。それが、今日いただいた卒業証書に集約されていると思うと、ずっしりと重く感じることでしょう。
 これから子供達は中学校という新しい世界へと歩を進めてまいります。時に悩み、苦しむこともありましょう。どうぞこれからも、これまでどおりにお力をくださいますようお願いを申し上げ、お礼の言葉といたします。
 誠に、ありがとうございます。
平成二十六年三月  日
  市立 小学校 平成二十五年度卒業生 保護者代表 丸山 道慶

祭文(177.6)

これの神床にお鎮まりくださいます、親神天理王命の御前に、桐生分教会長丸山道慶、慎んで申し上げます。
 親神様は、いちれつ子供の陽気ぐらしを見て共に楽しみたいと思し召されてこの世、人間をおつくりくださいました。以来、人間の身の内から森羅万象すべてにおいて、一瞬の隙もなく御守護くださる親心のほどは誠にありがたい極みでございます。私達は親神様のお教えくださった陽気ぐらしのできるよう、日夜お礼申し上げて通らせていただいております。
陽気ぐらしとは、互いに助け合って暮らし、心を澄ます生き方であるとお聞かせいただいておりますから、私たち道の子供達は率先して人様の助かりを願い、病める人、悩める人に助けの手を差し伸べられるようつとめて参ります。
 本日は当教会の月次祭の日柄でございますので、ただいまから一同で親神様の日頃のご厚恩に御礼申し上げるとともに、おたすけのためのおつとめをつとめさせていただきます
 教祖百三十年祭ようぼくの集いも残すところ今月の開催のみとなりました。親神様のご守護を感じ感謝し過ごすことこそおたすけになるのだという意識をそれぞれがもてるよう、受講をすすめてまいります。特に山名につながる私達は、奉献神願の願いを続けていけるようつとめてまいります。
今月は    件を御前に御供えいたしました。今月も今できる精一杯のおつとめをつとめさせていただきます。おつとめをもっておたすけをすすめることこそ、教会の原点であり使命であります。おたすけのための暮らしはにをいがけとなり、おつとめの理を受けておさづけの取次ぎができるよう、それぞれの生活の中で、できることを一つずつ行ってまいりますので、親神様にはより一層お勇みいただき、結構な道中へとお連れ通りくださいますよう、一同と共に、謹んでお願い申し上げます

祭文(177.5)

 これの神床にお鎮まりくださいます、親神天理王命の御前に、桐生分教会長丸山道慶、慎んで申し上げます。
 親神様は、いちれつ子供の陽気ぐらしを見て共に楽しみたいと思し召されてこの世、人間をおつくりくださいました。以来、人間の身の内から森羅万象すべてにおいて、一瞬の隙もなく御守護くださる親心のほどは誠にありがたい極みでございます。私達は親神様のお教えくださった陽気ぐらしのできるよう、日夜お礼申し上げて通らせていただいております。
陽気ぐらしとは、互いに助け合って暮らし、心を澄ます生き方であるとお聞かせいただいておりますから、私たち道の子供達は率先して人様の助かりを願い、病める人、悩める人に助けの手を差し伸べられるようつとめて参ります。
 本日は当教会の月次祭の日柄でございますので、ただいまから一同で親神様の日頃のご厚恩に御礼申し上げるとともに、おたすけのためのおつとめをつとめさせていただきます
 教内では教祖百三十年祭の旬としておたすけの気運を盛り上げておりますが、積極的におたすけに励むことを目指すと共に、消極的なおたすけもあり、それに気付き、意識して勇んで通る道中も重要であることもまた、再確認して参ります
奉献神願、今月は    件を御前に御供えいたしました。今月も今できる精一杯のおつとめをつとめさせていただきます。おつとめをもっておたすけをすすめることこそ、教会の原点であり使命であります。おたすけのための暮らしはにをいがけとなり、おつとめの理を受けておさづけの取次ぎができるよう、それぞれの生活の中で、できることを一つずつ行ってまいりますので、親神様にはより一層お勇みいただき、結構な道中へとお連れ通りくださいますよう、一同と共に、謹んでお願い申し上げます

祭文(177.4)

 これの神床にお鎮まりくださいます、親神天理王命の御前に、桐生分教会長丸山道慶、慎んで申し上げます。
 親神様は、いちれつ子供の陽気ぐらしを見て共に楽しみたいと思し召されてこの世、人間をおつくりくださいました。以来、人間の身の内から森羅万象すべてにおいて、一瞬の隙もなく御守護くださる親心のほどは誠にありがたい極みでございます。私達は親神様のお教えくださった陽気ぐらしのできるよう、日夜お礼申し上げて通らせていただいております。
 中にも、今日の佳き日は、明治二十年正月二十六日、これから世界いちれつをたすけるのだとお示しくだされたそのありがたい日を祈念し、当教会の春の大祭をつとめさせていただきます。上級埼玉分教会長様の御臨席を賜り、ただいまからよふぼく、信者一同にて、親神様の絶え間ないご守護に感謝御礼申し上げると共に、おたすけを祈願し、おつとめを陽気に勇んでつとめさせていただきます。
 一手一つとは、皆が同じことを思い、行動するだけのことではなく、人々が皆親神様の思し召しに沿った時に、自然と同じ方向に向かってゆく姿のことである、とお聞かせいただきますので、第一に神様への御礼を申し上げ、人のために尽くす行いをしていけるよう、教会一同つとめてまいります。
今月は    件の、人の助かりを願う真実を御供えさせていただきました。今月も今できる精一杯のおつとめをつとめさせていただきます。おつとめをもっておたすけをすすめることこそ、教会の原点であり使命であります。おたすけのための暮らしはにをいがけとなり、おつとめの理を受けておさづけの取次ぎができるよう、それぞれの生活の中で、できることを一つずつ行ってまいりますので、親神様にはより一層お勇みいただき、結構な道中へとお連れ通りくださいますよう、一同と共に、謹んでお願い申し上げます

177年5月 神殿講話 〈消極的なおたすけについてとひのきしんとはなにか〉

 只今は、5月の月次祭のおつとめを、結構につとめさせていただきましてありがとうございました。神殿講話をつとめさせていただきます。
 今日は土曜日ということで子どもたちもたくさんおつとめをつとめてくれまして、非常に良いおつとめができたと思っております。
 うちみたいな小さな教会ですとなかなか形の整ったおつとめというのはできないのですが、毎月祭文で「今できる精一杯のおつとめを」と申し上げておりますが、正に今日はそういった素晴らしいおつとめになったと思います。
 おつとめできるようになったらやりますと言ってますといつまで経ってもできませんので、できないならできないなりに一生懸命やらせてもらう姿が、神様お喜びくださってお受け取りくださるのだと思います。
 
 今月は仕切り丹精の月です。ご案内が遅くなってしまい申し訳ありませんが、大教会長様から、仕切っておぢばへ運ばせてもらおうとお声を頂いておりますので、ご協力をお願い申し上げます。
 また、6月1日は上級教会の合同総会の日です。今年もおたすけのおつとめをつとめると会長様からお声をいただきましたので、当教会からも奉献神願をもとに名簿を提出しますので、何かありましたら申し付けてください。
 ようぼくの集いが、支部では6月29日に開催されますのでぜひご参加ください。
 
 その中にも当教会も今月は1152件の奉献神願をお供えいたしました。一人が一人を願うその気持が、一ヶ月1000件を超える願いになってきますので、どうぞ日々願うということを意識していただきたいと思います。

 今月は二点お話を申し上げます。一点はおたすけについてお話をします。後半もう一点ひのきしんてなんだろうというお話をします。

 

【消極的なおたすけ】
 先月25日におぢばでおたすけ推進大会というのがありまして、第二食堂に1600人くらい集まりまして2時間ほど話を聞いてまいりました。
 やはり全教挙げて、ようぼくの集いをひとつのステップにして、おたすけのできるようぼくになってもらいたいという思いがあるようです。
 じゃあそのおたすけってなんだろうなってことを考えたいんです。
 今日も祭文に思い切って、神様の前で言上しました。おたすけの旬ということで、積極的なおたすけが求められるわけなんですが、それと同時に、おつとめと同じで、できるようになるのを待ってたらいつまで経ってもできませんので、消極的なおたすけというのもあるかなと考えました。
 先日5月の4日、献血がありまして、少しでもと思って声掛けの手伝い、ひのきしんをさせてもらいました。私も献血できる期間でしたから献血してきました。これもおたすけですね。
 献血というのは血液を医療用に使ってもらうわけです。どこかの誰かに輸血をしてもらうわけですからまさに命の危険がある方に使ってもらえる。これもひとつおたすけだと思います。
 献血のできない方も献血のお声掛けをさせてもらう。年齢的とか、事情があってできない方も、献血が出来る人に声をかけさせてもらう。これもおたすけですね。人のためになる行いですね。
 またはお道の上ではおさづけを取り次ぐですとか、お願いつとめをつとめるとか、にをいがけ、一言話をさせてもらうとか、自分から進んでやらせてもらう、これは積極的におたすけができている、素晴らしいようぼくの方だと思います。
 こういうことをやってくださいと言われるわけですね。ですが、なかなかこれは、やろうと思ってできるもんではないです。特に僕は苦手なんです。なかなか自分から声をかけられない。そんな時にいろいろ考えていたんです。

 私の話ですが、この春上の子が中学校、下の子が小学校に入学しました。割りと昼間時間がとれるものですから、小学校のPTAの役員を引き受けさせてもらいました。それから地域の子供会の役員をやってくれませんかと言われましてできる中で引き受けさせてもらいました。
 私は個人的に、そういう会をやるとかいうのは慣れてますので苦じゃありませんので、できることだからやらせてもらおうと思って引き受けて今やってます。
 中学校の入学式に行きますと中学校は中学校でPTAの役員を決めるんですね。そこでも引き受けるとどれも中途半端になりますので、黙っていました。そうしましたら他のお母さんが手を上げてくれて、すんなり4人の役員さんが決まりました。
 その時に僕は「ああ助かったな」と思いました。もし誰も出なかったら、引き受けようかなと思ってたんですが、他の人が手を上げてくれた時に助かったと思った。今年は僕は中学校はやらなくていいんだと思いました。助かったんです。僕。
 僕は小学校でPTA役を引き受けました。子供会で引き受けました。ただできるし、苦じゃないからやらせてもらおうかと思っただけなんですが、忙しくてできない人もいるし、役を背負うこと自体が負担になってしまってやりたくない人も多いんですね。
 僕が何か一つ引き受けたら、どこかの誰かがその分助かってるんだなと思ったんです。
 これもひとつ、神様の上から言うとおたすけなんだな、と思いました。僕にできることを一つやらせてもらったら、例えばそれをやらないけない人が、やらなくて済むのかなと。
 その分楽をするというわけじゃないですが、どこかの誰かが一人ちょっと時間が空く、その分その人は家のことができるとか、人のことができるとか、時間がとれるのかなと思ったんです。
 そうすると、そういうこともひとつのおたすけなんだよ。積極的に神様のこと、人助けだよと思ってやらなくても、できることを何かひとつやらせてもらうという、これもおたすけなんですね。

 そういうことを考えていくと、この社会の中でたとえば会社員の人は仕事をします。家にいらっしゃる方は家のことをたくさんします。学生さんは学校に行って勉強します。これは世の中のためになることですね。
 家族のことをするということは家族が助かるわけです。家族が助かるということは、家から仕事に行くことができるわけです。仕事に行けば会社の人やお客さん、仕事というのは基本的に社会貢献のためにやるわけですから、自分のためだけにやるわけではありません。
 まずは相手のため誰かのために仕事をする。そうするとお給料がもらえるとか感謝されるとか、そういう助け合いの世の中を人間はつくってきたんです。
 そういう中で自分のすべきこと、できることをきちんとやらせてもらうということは、間違いなくおたすけになっているということです。その姿は神様がお喜びになる姿なんです。何もやらないというのは残念かもしれない。
 だからできることを一つやらせてもらう。特別なことじゃない、日常の中に自分のできることやらなければならないことをやること。ここから人助けというのははじまっているんです。どこかで誰かが必ず私のために助かっているんです。

 

【健康でいることもおたすけだ】
 そこから言うと、健康であること。これも、おたすけですね。病院にかかると保険を使います。保険というのは税金、皆さんから頂いた税金でまかなわれいます。7割から8割。そうすると健康でいて、社会にとってあまり大きな負担をかけないようにする。
 必要もないのに病院にかからないようにする。普段から健康に気を使って過ごすということが、社会のためになるんです。
 今、医療不足と言われています。お医者さんが足りない。特に産科や小児科の医療者が足りないと言われています。特に救急病院が足りないと言われていて、これにはいろいろな要因がありますが、足りないからなるべくかからないようにする。
 そうすることによって本当に助からなければいけない人がたすかるようになるんです。順番待ちが減れば、お医者さんが一人にかける時間が長くなる。10人しかお医者さんがいないところに1000人の患者さんがいるのと、500人の患者さんがいるのでは、500人の方がお医者さんは楽に診られるようになるわけです。
 例えばですが、必要以上にお医者さんに行くようなことを控えるというようなこともこれも、どこかで誰かが助かっているんです。
 こういったこともみんなおたすけなんだというようなことを考えていくと、いずれ「神様はね…」というようなお話ができるようになったり、病んでいる人に会った時に「私は天理教だから、おさづけというお願いをさせてもらいますよ」というような声掛けができるようになっていくんじゃないかな、と思います。

 

【助けることは助かること】
 この姿を神様が望まれているんじゃないのかな、ということを考えました。おたすけというのは、もちろん積極的なことを心かけていかなければなりませんが、それと同時に、すでに私は誰かのためになっているんだということを考えていく。
 そうしたところに逆に、私は皆さんに助けられて暮らしているんだな、ということがまたわかってきます。そうすると、周りのいろいろなことが、ありがたく感謝の気持ちが湧いてくることと思います。
 消極的なおたすけというといい聞こえではありませんが、ガツガツいかなくとも十分日常の中でおたすけしているんですよ、ということを申し上げたくお話しました。


【ひのきしんてなんだろう】 
 一つ目がその、おたすけについてお話をしましたので、ひのきしんてなんだろうというお話をしたいと思います。
 2、3日前に大教会から手紙が来まして、大教会の前会長様の講話が文章にして送られてきました。それを読みながらぜひお話をしたいと思いました。
 ひのきしんとはなんでしょう。

 僕もこれ、高校生の時からひのきしんとはなんだろうな、ということを学生会の行事とかでお互いに話し合ってきました。
 私の考えでありますが、ひのきしんとは、おぢばがえりなんです。結論から言うと。
 ひのきしんてなんですか? と聞かれたらおぢばがえりだよ、と答えるようにしています。
 ひのきしんとは、一般的によく、神様に生かされているから、その感謝の気持ちを行動に現したこと、その全てがひのきしんだと言われます。ですから具体的にはなんでもいいわけです。
 お掃除をさせてもらっても、おさづけの取次おたすけをさせてもらっても、履物をそろえるとか、また先程も言ったような日日の皆さんのお働きも、すべてこれは、感謝の心でひのきしんになるわけなんだけれども、あえて僕は、それは、おぢばがえりだよ、と言います。

 

【ひのきしんとはおぢばがえりだ】
 ひのきしんという言葉は我々お道の人間にとっては非常に馴染みがあって、なんとなくわかりやすいんですが、お道を全然知らない人に、今度全教一斉ひのきしんデーがありますからとか、教会のひのきしんに行きませんかと誘っても、ひのきしんてなんですかって言われて困ってしまいます。
 どこから話を始めればいいのやら。ひのきしんていうのは、奉仕活動と言えばいいんじゃないかなと思ってますが、教会奉仕活動。人のため、誰かのためになることをなにかやらせてもらうことだよ。ひのきしんていうのはそういう意味があるよと思ってます。
 それはそれでまったく正しい部分で、もう一点、少し見方を変えていくと、人のため誰かのためになることだよ、ということと同時に、親。親に喜んでもらうことです。
 親というのは自分の親、両親、また代々のご先祖様も親ですが、行き着くところ、親神様。人間の世界においては教祖ですが、唯一の我々の親であります。
 その親神様教祖に感謝をしてお礼を言うわけですから、神様の思し召しどおり、神様がお喜びいただくことをする。これがひのきしんの行いなんだ。

 じゃあ神様が一番喜んでくれることは何かな、ということを考えます。そしたら、人間の親が喜んでくれることは何かな、と考えたんです。
 たとえば、子供が産まれ成長し、就職をして東京に出た息子さん娘さんが、初任給が出たと言って、「お母さんこれ使ってください」と言ってお小遣いをくれたら、とても嬉しいですね。涙がでるほど嬉しいですね。
 または給料が出たからボーナスが出たからお父さんお母さんに似合うと思ってプレゼントを送ってくれたら。休みの日にデパートに行って一生懸命選んでくれたら嬉しいですよね。
 私はそんな経験はまだありませんがおそらく嬉しいと思います。それと同時に。
 ボーナスをもらった給料をもらった。それを交通費にして、今度の連休にお父さんお母さん里帰りをするよって言って帰ってきたらどうかな、と思いました。
 親として考えたら最後の、顔を見せてくれるのが一番嬉しいんじゃないかな、と思ったんです。
 もちろん頑張って一生懸命仕事して給料もらったバイト代もらったから、その一部をお小遣いにくれるよ、また時間を使って考えて選んでくれたプレゼント、すごく嬉しいです。
 だけれども、一番親が喜ぶというのは、お小遣いなくとも、プレゼントなくとも、そのお金を交通費にして時間を使って、元気な顔を見せてくれたら、一番嬉しいのではないかと思います。
 これこれこうだったよ、というその間の話を聞かせてくれたら一番嬉しいんじゃないかな、そう思います。

 人間の親が嬉しいんだから、神様も嬉しいんです。
 それが、なにかという、それはもう、おぢばがえりなんです。
 おぢばに行っておつとめをつとめて、教祖に元気な顔を見てもらうこれが一番喜んでもらえる。


おぢばがえりがひのきしんの出発点】 
 ですがそれぞれの持ち場立場の上で色々と御用がありますので、特に群馬県は遠方ですのでなかなかおぢばがえりができない。
 そしたら、おぢばがえりができない分、おぢばの出張り場所である教会に運ばせてもらいます。
 おぢばでおつとめをしたい、でもできない。だから我々の土地ところであるここ教会で、おぢばに向かっておつとめをするんです。
 この神様、教会というのはおぢばに向かって建っていますから、おぢばに向かっておつとめをするんです。
 
 それでもなかなか忙しく教会にも足を運べない。
 そしたら、その時には、その間も結構に働かせてもらってるわけですから、忙しいというのは働いているわけですから、それによって得たもの、それを神様にお供えします。
 時間と労力を使ってできたものを、こんなに良い物ができましたと言って、神様にお供えさせてもらう。
 また、これだけお給料をいただきました。その一部を、おぢばがえりの費用と思って、おぢばに、神様にお供えをさえてもらう。
 これが、ひのきしんなんです。

 おぢばがえりなんです。考える出発点が。
 たとえば誰かを助けたい助かってもらいたい、なにかさせてもらおう。よし教会に参拝させてもらおうおつとめさせてもらおう、なにか日日やらせてもらおう、大変結構なことです。
 ただ、第一におぢばがえりを思い浮かべてもらいたいんです。
 おぢばがえりができるかな。今月来月。できるかな。
 できないな。だったら教会にお参拝させてもらおう。毎日参拝に行けるかな。
 できないな。そしたらその中で、自分が得たものの一部を神様にお供えさせてもらおう、願いを届けさせてもらおう。
 お礼の気持ちをそこに込めさせてもらおう。

 ということが、これが、ひのきしんというものの考え方です。
 おぢばがえりが出発点。第二に教会に足を運ばせてもらう。第三にお供えをさせてもらう。
 僕はそうだと思うんです。第一におぢばがえりなんです。

 特に教祖130年祭、年祭活動再来年の一月までですので、これまでにはなんとか一人も多くの皆さんとおぢばがえりをしたいと思っておりますので、いつおぢばがえりができるかな、ということを楽しみに皆さんにもお通りいただきたいと思います。

 

【そしてお守りを】
 あ。で、その、おぢばがえり、そうは言うけどできないですよ。我々は教会の者のとしておぢばに行くことが勤めのようなものですので行きますが、じゃあ来月一緒に行きましょうと言ってもできるものではありません。
 行事としては夏のこどもおぢばがえりがあります。子どもたちを連れておぢばがえりをさせてもらいますが、それ以外に行くというのはなかなか難しいです。
 じゃあおぢばを常に身近に、心に、という、これなんですが、これが、お守りです。
 皆さんお守り持ってますか? そのお守りの話が、大教会前会長様の講話の中に書かれていたんです。
 僕ここ何年か、よくお守りお守りという話を聞いていたんです。大教会長様からも、大教会の前会長様からも、何度も何度もお守りって聞いていたんですが、なかなか皆さんにお話できなかった。自分の身に付いていないんですね。
 申し訳ないなと思って、お守りの話をしなければいけないと。お守りってなにかと考えますと、お守りというのはおぢばがえりなんですね。
 おぢばに帰った証拠の守りなんです。

 お守りもなかなか、特に夏場は、汗をかいたりしましてお守り袋などで身につけにくいです。お風呂場に置いてきたりしちゃいます。
 例えば私は、お財布というのは常に持ち歩いてますので、その中にお守りを入れて持ち歩いています。お守り入れの中に入れておくとどこかにいってしまいますので、サランラップにくるんで、お財布の中に入れて持ち歩いてます。
 おぢばに行くと色々な形のお守り入れがあります。お守りは持ってるけど家のタンスに入っているという方がいらっしゃったらぜひ明日から、お守りを身につけていただきたい。
 お守りというのは、おぢばに帰った証拠として、教祖が実際に身に着けた赤衣の一部をいただくものです。
 それを肌身離さず日常の中で持ち歩くというのは、これは、信仰者としての姿の一つの現れでありまして、また、ひのきしんの態度であるということを申し上げまして、今月の神殿講話といたします。
 ありがとうございました。 

177年3月 神殿講話 <教理の基本>

 只今は当教会の月次祭のおつとめをともどもにつとめさせていただき誠にありがとうございました。神殿講話をつとめさせていただきます。
 先月はご年配の方も記憶にないと言うほどの大雪でございましたが、教会ではおかげで大きな被害もなく、皆様も大なり小なり影響があったことと思いますがお集まりくださいましてありがとうございます。ここ数年は特に十年に一度のナントカという災害が毎年起きているような気がします。備えておかなければならないと思います。

<ご報告>
 先月、二月はご本部で登殿参拝におぢばに行って参りました。年祭活動中に教会長が交代で本部の結界の中で、おつとめ衣を着けてかぐらづとめを拝させていただくという、上級の会長さんとともに行って参りました。
 冬が終わり暖かくなってきますと行事が色々増えてきます。何点か書いて貼っておきましたのでご確認いただきたいと思っております。三月の春季霊祭、大教会少年会総会、教区少年会総会、来月は当教会の春の大祭でございます。
 四月は教祖のお誕生月でありまして本部では誕生祭がつとめられます。上級教会のバス団参がありますので是非ご都合の付く方はご参加ください。また、四月二十九日には全教一斉ひのきしんデーがあります。例年通りに行いますので、よろしくお願いします。

<教理の基本>
 先月、この神殿講話で、信仰の基本てなんだろうということについてお話をしました。信仰の基本ていうのは、許すという心なんだよ、という風に私は思っていますので、そういう風なお話をしました。
 先日、今行われているようぼくの集いを受講してきました。非常に分かりやすいお話と、今までにないような一般の方が見ても分かりやすく編集してあるようなビデオを見て来ました。信仰の基本的な部分、幸せとはなんだろう、ということを学べる機会だと思いました。本部として年祭活動の中でとにかくおたすけだと言っているわけで、おたすけをするにはまず基本の部分を皆さんで確認し合いたいという思いがあるのだろうと思います。
 ですから私もそこにあやかりまして、今日は教理の基本の話をさせてもらいます。先月は信仰の基本、今月は教理のお話をいたします。
 色々言ってるうちに時間もなくなってきましたので手短にお話したいと思います。

 天理教というと、宗教法人天理教であったり宗教法人天理教桐生分教会だったりしますが、天理教と言った場合には宗教の一つと言えると思います。それ以外にもさまざまな宗教がありますが、それらのものと天理教とは何が違うのかということが、一般の方にとっては一番分かりやすい入り口ではないかと思います。
 一点違うのは、天理教というのは死語の世界についての教えがないです。天国とか地獄とか、そういうことについては教えていません。生まれ変わり出変わるということはたくさん教えて下さってありますが、死語の世界についての教えはお道の中にはありません。魂というのは永遠でありまして、死ぬと言わずに出直すと言いますが、死ぬと生まれ変わってくる、ということは今を生きるという教えです。天理教の教えというのは。
 今をどうやって生きるのかいうと、先を楽しみに通るということです。先というのは一年後、五年後、十年後かもしれませんし、またその先には来世というものもあります。その中で今どんなことが起きているのか、それを教えてくれたのがお道の教えであります。
 お道以外の、天国とか地獄とかというのを教えてくれたのは、それは人が死ぬことが怖いからです。生きていると色々な危険なことがあって、特に仏教が盛んだった時代というのは社会が不安定だったり自然が不安定だったりする時代で、人がたくさん亡くなったり将来が不安だったりしました。
 その死の恐怖、不安からの救いということで、仏様が皆を救ってくださったわけです。だから鎌倉時代になると、南無阿弥陀仏と念仏を唱えると仏様が救ってくださる。どんな悪人であっても念仏を唱えれば死後阿弥陀様が救ってくれるよというところまで教えが発展していったわけです。
 教祖はそういったことを教えなかった。死後どうなるかというと、生まれ変わると教えてくださった。では何を教えてくれたのかというと、それが、人間がなんで産まれてきたのか。なぜ神様は人間をつくったのか。どうやって人間をつくったのか。何のために人間は生きるのか。ということを教えてくださったんです。
 そこが、分かりやすい大きな違いであります。天理教の教えというのは死ぬこととか色んな不安をなくしてくれるものじゃないよ、人間をなぜ作ったのかどうやって創ったのかなんのために人間は生きていくのかいるのかということを、いままで教えていなかったので、今回それを教えますよ、というその点が「だめ」なんです。最後の一点。今まで色々なことは教えてきたけれどもそれについては教えてなかったのでじゃあ教えましょうという、それが天理教の特色でもあるわけです。
 
<教の理>
 それはではなにか。ということ。それが教理の基本であります。
 大教会の前会長様が「教の理」という薄い本を書いてくださいました。天理教の教について基本的な部分をものすごく簡単にわかりやすく短くまとめてくださってあります。ではここに何が書いてあるか。これが私は、お道の教理の基本であると思っています。
 ここにはおつとめとか書いてありません。ひのきしんとか書いてありません。何が書いてあるかと言いますと、十全の守護と八つのほこりなんです。この二点しか書いてない。これがこの神様の教の基本、出発点なんです。ここだけおさえておけば間違いないという点です。
 ですから今日は、十全の守護についてあらためて勉強したいと思ったのですが、そんなに時間がなくなってしまいましたので簡単にお話いたします。
 私は改めて教えの理を読んでビックリしたのですが、神様の教えが書いてあるんですが、読むのには読みなれる必要があるのかもしれませんが、そこには天理教を信仰すれば幸せになれますよとか、天理教を熱心にしんこうすれば病気が治りますよとかは書いてないんですね。書いてあるのは、十全の守護と八つのほこりなんです。
 ここから始まっていくんです。そこからはじめていくと、おつとめをしなければならないとか、ひのきしんしなければ、とかなるんですが、基本はここなんです。十全の守護からなんです。

<十全の守護>

 十全の守護というと難しいんですが、これ少年会向けに言うと、かしものかりものです。人間の身体は神様から借りてますよ。神様が身体を貸してくださってますよ。心は自由に使っていいですよ。この教でしかないんです。十全の守護というのは。それをパーツパーツに分けてお話しましょうか、というのが十全の守護なんです。
 くにとこたちのみこと、をもたりのみこと、くにさづちのみこと、月よみのみこと、くもよみのみこと、かしこねのみこと、たいしょく天のみこと、をふとのべのみこと、いざなぎのみこと、いざなみのみこと、と十のみことが出てきますが、この名前を覚えようとするとわかりません。十全の守護というのは。
 本部の本部勤務とか行きますと、毎朝朝礼でこれを読む。読むというか暗唱するんです。おふでさきを読んだりしてその後これを言う。そうすると天理高校の高校生でも見ないでこれを言うことができるんです。
 ですがこれ、言えても意味が分かわなければ意味がないです。言えるけど意味が分からないんだったら逆の方がいいです。意味がなんとなく分かってて、ナントカのみことという名前がわからんというほうがよっぽどいいので、是非中身を覚えてもらいたい。
 十個しかありませんのでわりと簡単に覚えられます。いざなぎのみこといざなみのみことと最後に出てきますけれど、これは男雛形・種。女雛形・苗代と、長くお話を聞いてこられた皆さんであれば分かるところです。そうしますとそれ以外は八つしかありません。
 まずよく聞きます「火水風」これでもう三つです。あとはつなぎとつっぱりと飲み食い出入り、そして切ると引き出ししかありません。
 ひとつずついきます。順番に行きますと、一番、くにとこたちのみこと様、人間身の内の目うるおい。目。人間の身体というのは70パーセントくらいでしょうか、ほとんどが水分でできているといいます。目もいつも涙で潤っています。世界では水の守護の理。水です。
 二番目にをもたりのみこと様。人間身の内のぬくみ。世界では火の守護の理。あたたかさです。人間の体温というのは、平熱皆さん何度くらいでしょうか。36度5分、6分、その体温を一定に保ってくれるのがぬくみ、火の守護です。世界では火の守護の理。太陽のあたたかさ。これが火の守護です。
 人間の身体というのはたかだが一度二度体温が狂うだけで正常に働かなくなります。寝込みます。38度熱が出る。35度を下回る。正常に行動できなくなる。それを一定に保ってくれている、あたたかさ、それが火の守護です。
 三番にいきますとくにさづちのみこと。これは人間身の内の女一の道具守護の理、皮つなぎ。世界では万つなぎの守護の理。
 人間の身体は7割程度水分でできていると言いましたけど、水だけだとじゃばっと流れておしまいです。お風呂の水集めてきて人間の形にしてもなりません。それが皮、皮膚でつながっている。皮膚というのは全部つながっています。ちょっと破けると大変です。つながっている。破けて水がこぼれないようになっています。これが皮つなぎの守護。世界では万つなぎの守護。つなぎというのは金銭縁談万つなぎと言いますが、人と人との間をつなぐ。こぼれないようにつなぐ。なにかとなにかをつなぐ。それがつなぎのご守護です。

 今三つです。水が出て火が出て皮がでてきました。
 四番目になりますと月よみのみことです。人間身の内の骨つっぱり。世界では万つっぱりの守護の理。
 皮だけだとべろーんとなってしまいますよね。アメーバみたいになってしまいます。それを人間立っていられるのは骨があるからです。この骨の守護神様です。月よみのみこと。
 世界では万つっぱりの守護の理。これはちょっとわかりにくいですね。つっぱりってなんだろう。この世界の中でつっぱっていられるというのはどういうことなんだろう。
 一つの例ですが、昔先輩に教えてもらったことがあります。お前、つっぱりってなんだかわかるかと。わからなかったのでなんですかと聞きましたら、それは重力のことだと教えてもらいました。
 この地球で世界を神様がおつくりになった時に、地球というものがあると重力があります。その、下に引っ張られる力。大地があって天があって、初めて立つという行為が成り立ちます。宇宙に行くと宇宙飛行士の方がぷかぷか浮いています。天井も床もないです。重力がないからです。そうすると立っていられない。立っていられるからこそ人間の日々の営みが生活があるということ。大地があって重力があるということが、つっぱりの守護であります。

 五番目。くもよみのみこと様です。飲み食い出入り。
 飲み食い出入りというのは、食べて飲んで、お腹の中に入っていって消化されて不要物が排泄されて、大事なものは栄養になります。そういうご守護です。
 食べたら食べただけじゃない。出るもの出さないと病気になります。出すぎても病気になりますから、そういうご守護くださるのが飲み食い出入りのご守護で、世界では水気上げ下げの守護の理と言っています。
 水がなくなると大騒ぎです。夏になると日本でも水不足になったりします。砂漠に行けば水がなくて色々な大変なんですが、水というのは誰かが作り出すものではなく常に循環しています。海まで流れると海で暖められて雲になってその雲が山で雨を降らせて川を流れて海に注ぐ。神様が作った永久機関のようなものです。このご守護をくださっているのがくもよみのみこと、お姿はうなぎです。お姿の話まですると時間がないのでしません。

 今五番目まできました。最初に水、目うるおい。人間の身体は水分でできていますよ。次にぬくみ。体温が一定に保たれていますよ。三つ目に皮つなぎ、皮膚ですよ。四番目に骨ツッパリですよ。5番目まできて飲み食い出入りですよ、とここまできました。

 六番目。かしこねのみことというのが出てきます。火水風といいましたが、風です。呼吸。息吹き分け。呼吸すること、話すこと、聞くこと。これがかしこねのみことです。
 音というのは空気が震えることです。それが鼓膜に届く。そして聞こえるわけです。空気がなければ音というのはないんです。ですから聞こえることもかしこねのみことです。世界では風の守護。風というのは今日もすごい風ですが、びゅーという風だけではありません。風というのはどういう現象かといえば空気が動く現象ですから、空気なんです。火水風と言った場合には、火と水と空気を神様がご守護くださっている。空気というのはないと人間死んじゃいます。これほどわかりやすいものはありません。

 もうこれで六つ出てきちゃいました。残る二つは、そんなに頻繁に人生の中で登場するものではありません。たいしょく天のみこと、をふとのべのみこと。
 たいしょく天のみこととは切るおはたらき。切るのはいつ切るかというと、第一には出産のとき。親と子の胎縁を切る。ま、へその緒を切るみたいなもんですか。出産のときに切る。第二に出直しのときに切る。そしてあとは、特に切っていただくのは、いんねんを切る。ちょっとこの話は時間がなくてできませんが、いんねんというものをそれぞれにとって、一番良いタイミングで引き出してくれるために、まず切る。その働きです。
 たとえば、手術をします。人間が手術をします。人間が人間の身体を切るというのはなかなかないことなんですが、切るときは思い切ってスパッと切らなければなりません。一番切れるお医者さんのメスで切るわけです。なんでかというと、綺麗に切ると綺麗につながるといいます。昔よくスケバンの話で二枚刃のナントカなんてありまして、あれはかみそりとかみそりの間に十円玉をはさんで切ると、顔に二本傷がつくので、くっつきにくくなるんだそうです。傷がずっと残るので、二枚刃というのは恐ろしい道具だったそうです。
 それじゃダメなんです。くっつかないと。綺麗に切ると綺麗にくっつくんです。切ったらつなぐ。つなぎというのは三番でくにさづちのみこと出てきましたが、何のために切るのかというと、つなぐ為に切るんです。その切るおはたらきが七番目、たいしょく天のみことです。世界では切ることいっさいの守護の理
 そしてをふとのべのみことが八番目に出てきます。出産のとき親の胎内から子を引き出す世話。これしかないんです。体内、身のうちにおいては。出産の時引き出す世話だけなんです。
 そのほかの、一番から六番までのみこと様たちは、なくなったら生きてられないというような、一秒たりとも隙のない働き。その後にたまにしか切らないんですよねという、たいしょく天のみことが出てくる。
 さらにその後に、出産のときにしかはたらかないご守護が出てきます。それだけ出産というのは大変なんです。そしてこれは、女の人にしかないんです。男の子は生まれてくるときに引っ張ってもらう働きはありますが、男の人は出産しませんから。男の人というのは、成長してからをふとのべのみことの守護を体内においていただくことがあまりないわけです。
 そして世界では引き出し一切の守護。これはいんねんの芽を引き出す。これはつまり、出会うべき人に出会うタイミングとか、そういう引き出しです。これが世界では引き出し一切の守護の理といいます。いんねんとはよく種まきといいます。良くも悪くも自分が蒔いた種から芽が出る。蒔いた種が芽を出す為には、まず種のお腹を切るんです。ぱっと割れて芽が出る。それはその植物にとって一番いいタイミングで出るんです。
 種物の芽腹が切れなかったら芽が出ないだろう。芽が出なかったら切れないでしょ。という、その理、ご守護ですね、切るということと引き出すということは一つなわけです。
 そしてまた切ったらつなぐというというのがくにさづちのみことがでてくるわけです。

 ざーっと言いましたけれども、そういうこと、です。
 水でできてますよ、あたためられてますよ。皮がありますよ、骨がありますよ。飲んだら吸収されて出ますよ。息ですよ。これで六つです。切りますよ、引き出しますよ。そしていざなぎさまいざなみさま。
 これらの神様のお働きがあるからこそ、人間は生きてられますよね、という、これが十全の守護なんです。
 神様が人間をつくったんだよ、こうやって作ったんだよ。こうやって今神様が働いているんだよね、ということを教えてくれた。かしものかりものです。
 で、心は自由に使っていいよと言ったけどそうすると悪い心が出ちゃいます。それをほこりと教えてくださった。それもここ、「教の理」に書いてあります。八つのほこり積んじゃうよね。だったら、おつとめするとほこりが払えるよね。だからみんなおつとめしてくださいね。ということを教えてくださった。

 これが、教理の基本です。と私は思ってます。
 これから皆様にはようぼくの集いに参加していただいて、何かおたすけ、人様のために働かしてもらうことができるかなあということを考えていただく機会が多くなると思います。その時に、神様の教の基本て言うのは十全の守護と八つのほこりなんだと。かしものかりものと八つのほこりというのが第一の基本なんだ。それを教える為に教祖を通じて親神様は色々とお教えくださったんだよというところを、是非今一度心に留めていただきたいと思う上から、今日はこのような話をいたしました。以上でございます。

祭文(177.3)

 これの神床にお鎮まりくださいます、親神天理王命の御前に、天理教桐生分教会長丸山道慶、慎んで申し上げます。
 親神様は、いちれつ子供の陽気ぐらしを見て共に楽しみたいと思し召されてこの世、人間をおつくりくださいました。以来、人間の身の内から森羅万象すべてにおいて、一瞬の隙もなく御守護くださる親心のほどは誠にありがたい極みでございます。私達は親神様のお教えくださった陽気ぐらしのできるよう、日夜お礼申し上げて通らせていただいております。
 陽気ぐらしとは、互いに助け合って暮らし、心を澄ます生き方であるとお聞かせいただいておりますから、私たち道の子供達は率先して人様の助かりを願い、病める人、悩める人に助けの手を差し伸べられるようつとめて参ります。
 本日は当教会の月次祭の日柄でございますので、親神様の日頃のご厚恩に感謝御礼申し上げると共に、おたすけを願いおつとめをつとめさせていただきます
 東日本大震災から三年が経過し、今も復興の真っ最中でありますが、親神様にはこの間も絶え間なく被災被災者の方々をお守りくださいました。どうぞまた今後も、大難は小難、小難は無難のご守護へとお連れ通りくださいますようにお願い申し上げます。
 今月は1,217件の、人の助かりを願う真実を御供えさせていただきました。今月も今できる精一杯のおつとめをつとめさせていただきます。おつとめをもっておたすけをすすめることこそ、教会の原点であり使命であります。おたすけのための暮らしはにをいがけとなり、おつとめの理を受けておさづけの取次ぎができるよう、それぞれの生活の中で、できることを一つずつ行ってまいりますので、親神様にはより一層お勇みいただき、結構な道中へとお連れ通りくださいますよう、一同と共に、謹んでお願い申し上げます